天満宮
昭和55年11月 建立
牛
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ほおずき
鬼灯は 実も葉も殻も 紅葉かな /芭蕉
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岡崎
白河院址 ➔ 白河院・法勝寺 址・・・・平安時代
六勝寺址
法勝寺
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最勝寺
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東三条ノ森址
鵺塚・秘塚址
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PARA SOPHIA 京都国際現代芸術祭 京都市美術館の展示
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満願寺 ➔ 満願寺 洛陽12支めぐり・辰
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小沢芦庵旧宅址
金戒光明寺(黒谷) ➔ 金戒光明寺の参道にチンチン電車の敷石が使われています
三門
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阿弥陀堂
経藏
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勢至堂
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西翁院
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善正寺 ➔ 善正寺 豊臣秀次の菩提寺・母の悲しみ
聖護院 ➔ 聖護院 (しょうごいん)
積善院準堤堂 ➔ 積善院準提堂 (しゃくぜんいんじゅんていどう) 「人喰い地蔵」 がある
崇徳地蔵 ➔ 崇徳院地蔵・人食い地蔵
お俊・伝兵衛恋情塚
須賀・交通神社 ➔ 須賀神社・交通神社
御辰稲荷神社 ➔ 神社左0016 御辰稲荷神社 芸能上達・願いの叶う真黒石
白河北殿址
崇徳院粟田宮址
藤原頼長桜塚址
中島棕隠宅址
白河南殿(蓮華藏院)址
二条新地址
石室からの排水溝 出口
物集女車塚古墳の横穴式石室の床面下部には、室内へ浸透した雨水などを外部へ導く、極めて入念に作られた排水溝がある。玄室では四壁沿いに、羨道部では梱石までの両壁沿いと中央部とにあり、これらは、合流して墳丘外へと抜ける。
この構造は、玄室から梱石までは板石を逆三角形に組み合わせたもの、梱石から羨門までは素掘りの溝に板石で蓋をしたもの、前庭部から墳丘崖面までは板石をロ字形に組み合わせたものと場所によって異なる。
この解説版の中央下部から顔をのぞかせている排水溝は、整備工事に際して復元したものである。長雨が通津したときは、石室を除湿する水が少しずつ流れ出る。
千数百年を経過しても機能する小さな排水溝一つとっても、古代人の英知が伺える。
横穴式石室の床面
床面下部の排水溝
蓋を取った状態の排水溝
排水溝 平面図
石室断面図
今から200年ほど前、江戸幕府は歴代天皇のお墓(御陵)を定めるための調査を行った。その結果、物集女車塚古墳はまず、淳和天皇の陵の候補となる。しかし、文久年間(1860年代)の調査では、はじめて「前方後円の築たる古墳」と記録され、大原野小塩山方面に、陵の参考地は移された。こうした経緯を反映して地元では、この古墳が「淳和天皇の霊柩車を埋めた塚」と言い伝えられてきた。
1920年代の後半(昭和初年)から、前方部の崩壊が進み、古墳の保存・修景を目的に、1983年(昭和58年)から本格的な考古学調査が開始された。荒れ放題の崖をていねいに掃除すると、地盤の地層の上に古墳の土が盛られている。高台の地層を基盤に、その上に何枚もの土層を積み置く作業によって、30度をこえる急勾配の墳丘は、崩壊や雨水による寝食をまぬがれたといえる。
古墳のかたちは、墳丘の裾ののびや、後円部と前方部のつけ根(くびれ部)を見ると、対称的になっておらず、前方部の東、つまり平野側の裾は凸形にふくらみをおびている。古墳の大きさは、削られた部分を復元すると長さ43~48m、高さ7~9m程度である。墳丘面は2段の平らな面(テラス)と上下2つの急な斜面で構成されている。墳丘中程のテラスは北が広く、南が狭いが、後円部の南・西側にむけて不明瞭になる。上位の斜面の下半分には、人間の頭ぐらいの大きさの礫を使った石組み(葺石)が設けられている。一方、テラスには小形の円筒埴輪が列をなして並ぶ。
公園の北西あるいは北部では、地盤の地層を掘り込む幅6mの大きな溝が見つかっている。古墳時代中期の大形古墳のような周濠にあたるのではなく、西側の高台との間を区画する施設と見られる。古墳の南側のくびれ部の地下では、方形上に巡ると見られる埴輪列が見つかり、くびれ部位置に凸形の「つくり出し」のような施設があったとも推定される。
石室内部の発掘調査の際に、石組みの部分的な法界の跡がみつかり、特に石室入口(羨道部)のひずみや石材の割れがめだった。そこで、石室の解体・復元・壁材の修理をおこなうことになった。後円部南半部の墳丘の土は大きく上部層、中部層、下部層の3種に分かれている。石室は、台地に穴を掘りくぼめ、側石を積みならべ、そのすき間を中・下部層の土を充填して作っている。これらの地層は石と石をつなぐ接着剤の役目をする。下部層は羨道部の北半部と玄室を覆っており、中部層はそのまま墳丘の骨格となっている。側壁がひずんだり、はらみ出した部分では、墳丘土と石材が分離したり、空洞ができていた。
なお、玄室の前壁外側には、長持形石棺の一部(「龍山石」製、古墳時代中期)が、転用材として使われていたことが注目される。
当古墳の整備は平成4年度から3か年をかけて、京都府の緑と文化の基金助成金を得て実施したものである。
平成7年(1995)1月
向日市教育委員会
石室と石棺
石室は石棺を納める玄室と玄室への通路にあたる羨道とからなる。石室の床面には、小さな玉砂利が敷かれているが、その下には、複雑な構造の石組の溝を設置し、排水に努めていた。玄室には3~4回の埋葬跡が認められる。最初の埋葬には、二上山から切り出した凝灰岩の板材を組み合わせて作る家形石棺を用いた。石棺の側面や蓋石には縄掛突起と呼ばれる突起が作り出され、内面にはベンガラが塗布されている。
発掘したとき石棺の前面に散乱していた2組の石材は、本来、石棺上に載せられ、副葬品の陳列棚として用いられた可能性がある。
石棺内からは多数の副葬品が出土した。中でも特異な金銅製冠や三輪玉等の存在は、墳丘の形態や出土埴輪の特徴等と合わせて、古墳に埋葬された乙訓地方の王が、淀川沿岸~大阪湾岸、特に紀伊周辺と関係が深いことを示す。かつ、滋賀県や福井県の古墳等とも強い共通性がみられる。6世紀前半、大和朝廷の混乱の中、ここ乙訓地方には、北陸から出た継体天皇(男大迹王)の「弟国宮」がつくられる。当古墳の埋葬者も継体擁立勢力と従属関係をもち、これらの政変と無縁ではなかったようだ。
平成7年(1995)1月
向日市教育委員会
左の扉が石室の入り口か
古墳 前回の記事 ➔ 古墳右03 雙ケ岡1号墳
関連記事 ⇒ まとめ0029 古墳
今日の俳句
灯ふたつに 照らされてゐる 守宮かな /狐月
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阿弥陀ケ峰
法住寺殿址
最勝光院址
池田町
蓮華王院
本堂
本尊千手観音坐像
千体千手観音立像
風神・雷神像
二十八部衆立像
南大門 ➔ 蓮華王院 (三十三間堂) の南大門・太閤塀
太閤塀
通し矢 ➔ 三十三間堂 通し矢330年前に樹立の最高記録です
弓引き初め
夜泣き地蔵
楊枝浄水供
養源院 ➔ 養源院 宗達寺といわれたり、血天井のお寺とも
血天井
後白河天皇法住寺陵
妙法院宮墓
法住寺 ➔ 法住寺 身代り不動が安置されています 大石良雄も祈った
陶工欽古堂亀祐墓
専称寺 ➔ 専称寺 「馬頭さんのお寺」 といわれています
京都国立博物館 ➔ 京都国立博物館 野外展示 石造物の12点
馬町十三重塔
阿弥陀三尊石仏
考える人像
恭明宮址
豊国神社 ➔ 豊国神社
唐門
六角型石燈籠
秀吉御馬塚
方広寺(大仏殿) ➔ 方広寺 大仏殿・鐘楼
銅鐘
石垣
耳塚 ➔ 耳塚(鼻塚) 戦功の証として鼻や耳を塩漬けにして持ち帰った
専定寺(烏寺) ➔ 専定寺 (烏寺)
智積院 ➔ 寺院東0075 智積院 北門
総門
本堂
大書院
庭園
収蔵庫
妙法院
庫裡
大玄関
宸殿
竜華藏
大書院
大書院庭園
白書院
御座の間
御座の間庭園
玉座の間
積翆園庭園
新日吉神宮 ➔ 道標東0031 新日吉神宮 社号標
豊国廟 ➔ 豊国廟 豊臣秀吉の墓所
太閤坦
三島神社 ➔ 三島神社 平家ゆかりの地 安産祈願 義経伝説
影向石
宝生院 ➔ 宝生院 天台宗
小松谷
平重盛小松殿址
正林寺 ➔ 正林寺 浄土宗
阿弥陀経石
若松池址
渋谷越
苦集滅路
茶盌坂
法華寺 ➔ 法華寺 日蓮宗
清閑寺
要石
並河天民墓
歌の中山
高倉天皇後清閑寺陵
小督局塔
六条天皇清閑寺陵
慈宝院 ➔ 慈芳院 大仏殿方広寺建立に尽力した秀吉の家臣の別邸と墓
薬師石仏
河合寛次郎記念館
旭米顕彰碑
大正3年(1914)12月建立
この石碑は、明治時代の終わりに稲の新品種「旭」を発見した山本新次郎の功績をたたえて、建立されたものです。山本新次郎(1849~1918)は、京都の東山に生れ、幼くして向日町(現向日市)物集女の農家の養子となりました。天性温厚で農業に励み、研究熱心だった新次郎は、明治41年(1908)、当時広く栽培されていた稲の品種「日の出」と「神力」の間から、悪天候にも倒れない株を見つけ出しました。良い籾を選び出し、栽培を重ねて新品種とすることに成功し、「日の出」より優れた「朝日」と名付けました。私心のない新次郎は、求められるままに近隣に籾を分け与え、質の良い米は評判になりました。明治44年には、桂に設置されていた府立農事試験場で試験栽培の結果、優良と認められ、すでに同名の品種があったため、「旭」の文字に改められました。「旭」の特長は、1つの穂につく籾は少ないが、株分かれが多く増収が見込め、粒がおおきくて味が良いことです。大正時代に奨励品種となり、昭和10年代には、西日本各地でもっとも広い栽培面積を占めるようになりました。また「旭」からは次々と改良品種が生み出され、コシヒカリなど現在作られているおいしい米の多くは、「旭」が遠い先祖にあたります。
石碑の建立を発起した「西国同行」とは、青年期に西国三十三所巡礼を一緒にまわった人々の集まりのことで、物集女では終生深い親交を結びます。若い頃からの仲間や、同じ町内の人々によって、物集女の水田を望む街道沿いにたてられたこの碑は、今も続く米つくりを見守っているようです。平成25年3月
石碑 前回の記事 ➔ 石碑西0052 善峰寺領
今日の俳句
虹の輪の うすらぎつつも まだありぬ /草城
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お地蔵様
秋の終わり頃此の前の池を空にして、北の町総出で毎年雑魚とりやったもんだ。皆んな描き回す泥の底に永いこと、お地蔵はんがあったん気付く人居なかったんや。昭和30年頃のお話やった。泥の中を足で、こんなところに石があると思い、よく見ると、びっくり仰天お地蔵はんやった。息子の寅やんに相談、さっそく大工の高田はんに頼んで館が作られた。お地蔵はんは水でよく泥を落とし、赤いよだれかけをして、花や線香で五日目にはワテ心をこめて祭ったえ。その晩やったかなぁ、ワテの枕元にあのお地蔵はんが出て太い声で「オシゲハン明ルイエエ処エアゲテクレタナァ、コンナ嬉シイコトナイデエオオキニ、コノオ礼ニ病気セント長生キスルヨウニキット守ラセテモラウデェ」と云わはった。目を開けたら夢やった。けどけど声だけ今でもはっきり耳に残っている。ワテ嬉しなって、それから毎日お詣りしてるねん。3年程前の夕方やった「オーイ」と声がした。びくりして四方見たけど誰もおらん。思い出したら忘れもせんわあの太い声やった。よう見たら三百円お供えしてあった役員さんに納めといた。気にしてやはったんやろうなぁ今までそんな事二回ほどあったわ。ワテ今日まで長生きさしてもろてよう考えてみたらほんまに結構なご利益もろててんな。お地蔵はん、おおきに。皆んなにもよろしいお願いします。
昭和五十八年五月吉日
上羽 シゲ 九十四歳
平成二年一月七日 永眠 享年百一歳
地蔵尊 前回の記事 ➔ 地蔵尊上015 お地蔵さんは 家の中です
今日の俳句
風鈴に 大きな月の かゝりける /虚子
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左 西山くおんじ道
前回の道標 記事 ➔ 道標西0056 三鈷寺道 他
今日の俳句
ゆらゆらと 線香花火の 火玉かな /乙宇
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大報恩寺 ➔ 千本釈迦堂・大報恩寺 800年前の建物・おかめ像・本堂に刀・槍のきずあと
本堂
本尊釈迦如来坐像
十大弟子立像
誕生釈迦仏立像
千手観音立像
大観音菩薩像
太子堂
山名氏清碑
おかめ塚
浄土院 ➔ 浄土院 「湯たくさん茶くれん寺」 秀吉のユーモア
軽女墓 ➔ 上善寺 忠臣蔵 ・軽女の墓 がある
西方寺
上七軒
北野天満宮 ➔ 天神さまの七夕 北野天満宮
中門
廻廊
石灯籠
本殿
地主神社
桜葉社
神明社
火之御子社
連歌井戸
一夜松神社
乾大神
絵馬所
宝物館
梅花祭
瑞饋祭
伴氏社
影向松
右近の馬場址
豊公北野大茶会址
観音寺 ➔ 東向観音寺
忌明塔
蜘蛛塚
御土居址
紙屋川
大将軍八神社
成願寺 ➔ 成願寺 キリシタン墓碑が発見される
大内裏址
立本寺
西光院
長沢芦雪墓 ➔ 回向院 画家 長沢芦雪(ろせつ)の墓所
奥渓家下屋敷址
一ノ保天満宮
平野匡臣外三余士墓
竹林寺 ➔ 竹林寺 幕末、六角獄舎で処刑された勤王志士37名が眠る
華開院 ➔ 華開院 日野富子 墓所
大雄寺 ➔ 大雄寺 浄土宗黒谷派 松本見林・山中貞雄(映画監督)の墓所
観音寺 ➔ 観音寺 百叩きの門
慈眼寺 ➔ 慈眼寺 成政の菩提 夜泣き地蔵 千人堂、与力 神沢杜口、画家・山本梅逸墓所
華光寺 ➔ 華光寺 出水の毘沙門様 時雨松 五色椿
光清寺 ➔ 光清寺 浮かれ猫、「心和の庭」 (重森三玲 作)
うかれ猫絵馬
福勝寺 ➔ 福勝寺・・ さくら寺、ひさご寺、ひょうたん寺 などと呼ばれています
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寺之内
宝鏡寺 ➔ 宝鏡寺 人形寺と呼ばれています
慈受院 ➔ 慈受院 源氏物語・村雲御所の地
度々橋址
報恩寺 ➔ 報恩寺 鳴虎の報恩寺といわれる、古い石橋、つかずの鐘、黒田長政
茶道総合資料館
本法寺 ➔ 本法寺 光悦・長谷川等伯 ゆかりの寺
本堂
光悦松
多宝塔
日親説法石
庭園
本阿弥家一族墓
表千家不審庵 ➔ 表千家不審庵
裏千家今日庵
利休忌
水火天満宮 ➔ 水火天満宮 石柱と2つの石
登天石
大応寺 ➔ 大應寺 臨済宗相国寺派
後花園天皇火葬塚 ➔ 陵墓上005 後花園天皇火葬塚
妙覚寺 ➔ 妙覚寺の桜
大門
後藤屋敷址擁翆園
庭園
西林寺
宝慈院 ➔ 宝慈院 千代野御所と呼ばれています
本尊阿弥陀如来坐像
道正庵稲荷
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三時知恩寺 ➔ 三時知恩寺 浄土宗
室町御所址 ➔ 石碑 室町幕府・花の御所跡 今出川通室町東北角
金竜水
大聖寺 ➔ 大聖寺 臨済宗系の単立寺院 御寺御所ともいわれている
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地主社
伴緒社
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西法寺 ➔ 西法寺 由緒ある寺
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紫野斎院址
有栖川
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織田稲荷社
観世稲荷社
本隆寺 ➔ 本隆寺・・・火災に耐え抜いた
千代野井
夜泣き止めの松
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岩神祠 ➔ 岩上神社
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般舟院
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伝式子内親王塚
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阿弥陀三尊石仏
千本通
瑞雲院 ➔ 瑞雲院 行方不明になった3歳の子が9年後に見つかり親の元に帰った
引接寺 ➔ 千本ゑんま堂・引接寺 閻魔様が人気です
九重塔
普賢象桜
大念仏狂言
池大賀墓 ➔ 浄光寺 池大雅の墓所
東からの参道
西側の鳥居
末社
末社
本殿
入野神社
俗に春日神社と称し、大原野神社の祭神と同じ春日神を祀る産土神として崇敬されている。大原野は古くは入野と称したものといわれている。神社としては延喜の制に官社に列せられる旧乙訓郡中、有数の古社だが惜しくも創祀沿革が明らかでない。また、蔵王寺(神宮寺)と呼ばれた建物もあるが、今は上羽町の公民館となっている。
平成御大典奉祝
伊勢神宮式年遷宮 記念樹
石碑 紀念
日露出征軍人 8人の名が刻まれています
明治40年5月(1906年)
関連記事 ➔ 神社西0055 大原野神社
神社 前回の記事 ➔ 神社西0063 阿智坂明神 善峯寺の鎮守さま
今日の俳句
蟻の道 まことしやかに 曲りたる /青畝
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紫野
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四面石仏
神占石
鯰の台石
やすらい祭
あぶり餅
御旅所 ➔ 今宮神社御旅所
西向寺
地蔵石板
牛若丸誕生井
常徳寺
柳原紀光墓
久我神社
船岡山 ➔ 復活 ラジオ塔
建勲神社 ➔ 建勲神社
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三門
仏殿
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方丈
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庭園
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書院
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蓮台野
上品蓮台寺 ➔ 上品蓮台寺 十二坊 多くの名家の墳墓がある
仏師定朝墓
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頼光塚
後藤祐乗墓
富士谷成章・御杖父子墓
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出雲井於神社
御手洗社
河合神社
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光福寺(干菜寺) 光福寺 干菜寺系・六斎念佛 秀吉から「ほしな寺」と称された
法性寺
清風荘 清風荘 庭園 イギリスのウェールズ皇太子や大津で遭難したロシア皇太子が静養された
知恩寺(百万遍) 広い境内の知恩寺 「百万遍」 名付け親は後醍醐天皇
阿弥陀経石
猫間塚
田中神社
玉柳稲荷神社
賀茂波爾神社
高野川開墾来歴碑
府立植物園 桜左021 植物園の桜 H28.4.10
PANTHEON (パンテオン・神々の饗宴) 琳派400年記念 植物園