アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

石碑伏0105  一本松

2017年02月14日 06時00分58秒 | 石碑

全部で 4つの 石柱が 建っています

寶塔寺  と 題目

この地には,かつて樹齢千年を越す松の巨木があった。豊臣秀吉(1536~98)が植えたとか,参勤交替の目印とか,常盤御前が三人の子を連れてその下で休んだ等の伝説が残る。この石標は一本松の跡を示すものである。

 古蹟   一本松           義三(印)

  

一本松 の石碑  

 

京都市長  高山義三

岡本長三郎

                   京都市長高山義三         岡本忠夫

                   市会議員岡本伝次郎      吉岡時蔵

                 世話人                  中村秀良園

                      今村金蔵            村岸信一

                    林   永三郎         前田源蔵

 昭和廿八年秋建之   林   永乃之助      前田正躬

              石泉■      岡本新太郎      北村石材店

かつては、樹齢1000年といわれる老松があった。昭和9年(1934)の室戸台風により、損傷枯死して、二代目が植えられ「旧蹟 一本松」の標石が建てられた。

「南無妙法蓮華経」の大題目塔と松は、今も昔も風情を伝え、伏見街道の道標の役割を果たしている。

東に入る道は、宝塔寺馬場と呼ばれ、寺の正参道である。道の門前にあった蓮池から、龍谷大学の前を、東西一直線に流れるケナサ川があった。(砂川と呼ぶこともある)。大部分が暗渠になったが、天正検地帳(1589)の稲荷村南限線である。西に向かっては、第一軍道の陸橋がある。この種の道路は、南の方に、第二、第三とあり、軍隊の町時代の名残が今も生きている。

 

七面大天女

天長地久  国土安穏  寶徳講

 

石碑 前回の記事 ➡  石碑東0104  伏水街道 一之橋 旧址

 

五七五

 

猿だった名残か毛皮恋しいの /こはく

 

 

 

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まち歩き伏0385  琵琶湖疏水  砂川橋

2017年02月13日 09時41分06秒 | まち歩き

 

 

砂川橋

昭和3年参月竣工

 

北を見る

 

南を見る

 

すながはば志

 

 

 

まち歩き 前回の記事  ➡  まち歩き伏0384  琵琶湖疏水 ススハキ橋

五七五

猿だった名残か毛皮恋しいの /こはく

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まち歩き伏0384  琵琶湖疏水 ススハキ橋  

2017年02月12日 11時31分33秒 | まち歩き

琵琶湖疏水  ススハキ橋

西方向を見る

 

 

北方向を見る

 

 南方向を見る

 

大正14年架橋

東方向を見る

 

 

まち歩き 前回の 記事  ➡  まち歩き伏0383  ランプ小屋  旧東海道線の史蹟

 

五七五

 

町が市となってもクマは知らんわな /一見紳士風

 

ことわざ

諍い果てての乳切り木(いさかいはててのちぎりぎ)

「乳切り木」は、地面から人の乳のあたりまでの長さの、両端を太く中央を少し細く削った護身用の棒。けんかが終ってから棒を持ってきたのでは手遅れである。時機に遅れて役に立たない物事のたとえ。

類・火事あとの火の用心

 ・葬礼帰りの医者話

 

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寺院伏0337  摂取院  浄土宗

2017年02月12日 08時27分37秒 | 寺院

 

 京都市伏見区深草直違橋11-106

 

 

浄土宗 鎮西派

慶長13年(1608)建立。明治11年(1878)東海道線建設のため、御前町から現地に移建された。

地蔵堂に祀られる腹帯地蔵(地蔵菩薩坐像、1.2m)は、解体修理により、典型的な平安時代の寄木造であることが判明した。銘文のうち最古のものは、平安末期の墨書といわれている。後頭部裏の墨書は、修理の時のもので、

大仏所大進法眼  六条東洞院仏所勅願寺 文明17年6月18日

と記してある。大進法眼とは、仏師が所属する仏所で、勅願の仏像を作った功績として「勅願寺」の称号が与えられたと考えられている。仏師の個人名は記していないが、上京区引接寺の閻魔像には、「大進法眼定勢」とある

                                         

腹帯地蔵尊   天保15年(1844)   

 

地蔵尊

 

 

六齋講

昭和2年12月 拾壱町目町中

 

 

 

當村 六齋講中

 

天保6年(1835)正月

 

 

寺院 前回の記事  ➡   寺院伏0336  伏見妙見寺  単立

五七五

花とケーキ同じ値段で花戻す /やせっぽち

ことわざ

戦見て矢を矧ぐ(いくさみてやをはぐ)

「矧ぐ」は、竹に羽をつけて矢を作ること。戦いが始まってから矢を作る。の意で、何か事が起こってから慌てて対策を練ったり、準備することのたとえ。

類・泥棒を見て縄を綯う

 ・備えあれば患いなし

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文化財伏005  大橋家庭園

2017年02月11日 10時06分08秒 | 登録有形文化財

 

 

明治末年から大正初期にかけて大橋仁兵衛が建てた別荘で、当時の住宅庭園の一例を示す。また「水琴窟」を設けた庭として注目される。

鯖は日本海の海産物で、八瀬、大原を通る若狭街道が知られている。鉄道開通以前の瀬戸内の鮮魚は、淀川水運により、鴨川と桂川の合流点近く、「草津」に運ばれた。草津は、現在は伏見区横大路に草津町がある。ここで陸揚げされた魚は、「走り」と呼ばれる運搬人により、鳥羽街道を一路京都を目指した。しかし、この道は京阪電車の鳥羽街道駅とは関係がない。古くは、鳥羽の作り道、後に大坂街道とも呼ばれ、平安京の羅城門に直結する道であった。輸送を容易にするために、車石と呼ぶ石のレールも敷かれていた。淀川水運には、夜行船があったから、朝の集荷と、京都への運びが、鮮魚価値の勝負どころであっただろう。大橋家はそのような鮮魚を扱う元請業者であった。

 

大正2年(1913)、草津浜で鮮魚の元請を営んでいた大橋仁兵衛が引退し、ここに隠居屋敷を構えました。そしてこの庭園、苔涼庭がつくられました。

南方に伏見稲荷の森をのぞむこの庭は露地(茶庭)風につくられ、しっとりと落ち着いた苔に覆われています。この庭の特色は自然石・石造石の数の多い点です。結晶片岩・鞍馬石・水蝕花崗岩など大小色とりどりの石が庭全体に散りばめられ、春日型・善導寺型などの石燈籠や蹲踞・縁先手水鉢などの石造品も要所に配されています。その中でも注目されるのは、蹲踞・縁先手水鉢のいずれにも水琴窟が構えられていることです。水琴窟というのは、手水のつかい水の排水装置を兼ねた一種の音響装置で、琴のような音色を奏でることからその名があります。

大橋家庭園は、大正はじめ頃の住宅庭園のありようを示す一例として、また、水琴窟を備えた庭園としても特筆されるものです。昭和63年5月2日、京都市文化財保護条例により、京都市登録名勝とされました。 京都市

関連記事 ➡  まち歩き左0813 鞍馬石

文化財前回の記事  ➡  文化財府004  久美浜 稲葉本家

五七五

倦怠期昔ロミオとジュリエット /ピーターうさぎ

ことわざ

怒れる拳笑顔に当たらず(いかれるこぶしえがおにあたらず)

怒って振り上げた拳も、笑顔の相手には振りおろせない。相手の怒りや強気の態度には、かえって優しい態度で対するほうがよいという教え。

類・尾を振る犬は叩かれず

 ・袖の下に回る子は打たれぬ

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神社伏0087 お産場稲荷社

2017年02月11日 06時26分03秒 | 神社

 

 

 

お産場稲荷社は、狐はお産が軽いので、それにあやかろうという信仰から生まれた。世間一般では、犬はお産が軽く、妊婦の腹帯も、戌の日を選ぶ習慣がある。狐の日はない、しかし狐も犬も同種の動物である。稲荷社のお山には、様々な狛犬がいる。子連れ、授乳、子育て中等様々な狛犬がいる。

この社のこんもりとした台地の周囲のは、12ケ所の狐穴があり、妊産婦の予定産み月の狐穴向かい祈祷すると「安産」になると昔より言われています。

 

神社 前回の記事 ➡  神社伏0086  弓矢八幡宮

五七五

冬すぎて春来て会えなくなるんだね /福原

ことわざ

怒りは敵と思え(いかりはてきとおもえ)

怒りという感情は、わが身を滅ぼす敵と思って、抑えなければならないという戒め。

知・徳川家康の遺訓の1つ

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道標伏0092  田中社  ごんだゆうノ滝  

2017年02月10日 17時10分20秒 | 道標

 

 

 

 

 

 

 

神徳皇恩教会大院

 

道標 前回の記事  ➡  道標伏0091  道に迷う  目的地が見つからない  次回 探そう

五七五

あの水着なんでビキニと言うんだろ /仏の徳

ことわざ

家貧しくして孝子顕る(いえまずしくしてこうしあらわる)

家が貧しいと子供も家計を助けたりするので、自然とその孝行が人に知られてくる。逆境のときにこそ、人の真価が現れて認められるという意。

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道標伏0091  道に迷う  目的地が見つからない  次回 探そう

2017年02月10日 11時04分30秒 | 道標

 

 

道標 前回の記事 ➡  道標東0090  鳥戸野陵・中尾陵 参道

五七五

美人の湯行ってきたんじゃなかったの /横松

ことわざ

家柄より芋茎(いえがらよりいもがら)

よい家柄よりも、食べられる芋茎のほうがよいという意。落ちぶれた休か門閥をあざけっていうことば。

類・家柄より食いがら

 ・芋茎は食えるが家柄は食えぬ

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神社伏0086  弓矢八幡宮

2017年02月10日 06時43分39秒 | 神社

 

 

 

 

神社 前回の記事 ➡  神社東0085 田中神社

五七五

退任後私費で行ってよ諸外国 /大惨

ことわざ

言いたい事は明日言え(いいたいことはあすいえ)

思ったことはすぐ口に出さず、一晩じっくり考えるくらいの間をおいたほうが、失言をせずにすむということ。

類・腹の立つ事は明日言え

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寺院伏0336  伏見妙見寺  単立

2017年02月09日 17時24分29秒 | 寺院

京都市伏見区深草開土町85-1

 

 

 

寺院 前回の記事 ➡ 寺院東0335  極楽寺  浄土宗西山禅林寺派

五七五

麦茶って買うもんらしいうちの嫁 /照れまん

ことわざ

言い勝ち功名(いいがちこうみょう)

言葉数の多い方が勝ち、道理のない意見でも多弁なほうが人に受け入れられるという意。また、黙っていてはよい意見も周囲の者に通じないということ。

類・言わぬことは聞こえぬ

対・言わぬは言うにまさる

 ・沈黙は金雄弁は銀

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地蔵尊伏034  伏見区 深草 榎木橋町

2017年02月09日 12時26分50秒 | 地蔵尊

 

文政12年(1829)7月

天導大日如来   地蔵大菩薩

 

 

地蔵尊 前回の記事 ➡  地蔵尊伏033  伏見 丹後町  地蔵尊

五七五

おトイレを我慢して聞く孫の九九 /高橋

ことわざ

暗夜に灯火失う(あんやにともしびうしなう)

頼りにするものを失い、途方に暮れること。

類・川からあがった河童

 ・闇の夜に灯火を失う

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下京区 本町十九町目  仁丹看板

2017年02月09日 07時21分55秒 | 仁丹看板通り別

 

下京区 本町十九町目  本町通東福寺南門下ル

仁丹看板 検索  ➡    仁丹 町名ホーロー看板

関連記事 ➡  下京区 本町十五町目  仁丹看板

 

五七五

 

あの女優私似よネと母は言い /喜楽娘

 

ことわざ

案ずるより生むが易い(あんずるよりうむがやすい)

事前にいろいろと心配したことも、思い切ってやってみるとも、存外想像していたよりたやすくできるものということ。取り越し苦労を慰めることば。

類・案じる子は生み易い

 ・思うより生むが易い

 

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まち歩き東0382 伏見人形  丹嘉

2017年02月08日 07時20分36秒 | まち歩き

 

 

 

伏見人形の由来

天下に有名な伏見人形は稲荷山の埴土を以って造った最も古い郷土玩具であります。

全国で90余種以上もある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないといわれるほど我国土人形の元祖であり、民族的な美しさを誇っています。即ちその起源はむかし々土師部(土でいろいろなものを造る人)は歴史に名高い野見宿祢の後裔にあたる土師氏が、統轄して土器を造っておりました。垂仁天皇の時代に朝廷より土師職に任命されまして、伏見深草の里に住んで土器、土偶(土人形)を創りだし茲に生れたのが伏見人形であります。稲荷大社の祭事に使われる耳土器をはじめ、お使姫のお狐さんや饅頭喰い・チョロケン・玉・てんぼ等お馴染深いものなど現在残っている原型・土型は3000種余り、往時の風俗伝説を人形に表現したものが殆どで着想の飄逸奇抜、ユーモアに富んだ面白さ豊かな味、そしてその1つ1つににじみでている庶民的な素朴さ、今は外国人の人々にまで親しまれています。

一休禅師の歌に

西行も 牛もおやまも なにもかも 

土に化けたる 伏見街道

 伏見人形が現在のような姿になってくるのは、江戸時代に入ってからである。伏見人形といえば、ここ丹嘉が知られているが、裏参道の鳥居の近くにも玩具店を営む高畠喜兵衛氏の店がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関連記事  ➡  錦市場 西の入口 画家・伊藤若冲の生家

            専称寺  「馬頭さんのお寺」 といわれています

まち歩き 前回の記事 ➡  まち歩き東0381  伏水街道 第三橋 

五七五

ゆるい服着てたらサイズあっちゃった /さちよ

ことわざ

阿波に吹く風は讃岐にも吹く(あわにふくかぜはさぬきにもふく)

ある土地の風俗や習慣は、他の土地にも移りやすい。また、上のすることは下も見習うようになるということ。どこに行っても人情は変わらないということ。

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寺院東0335  極楽寺  浄土宗西山禅林寺派

2017年02月07日 09時54分10秒 | 寺院

京都市東山区本町22-489-1

 

 

ここは、東山区の最南端に当たり、伏見区深草に接する。

当寺はもと深草にあった藤原基経の極楽寺の名を継いだ寺といわれ、延慶年間(1308~11)ときの住職良桂律師が、日像上人との法論に敗れて日蓮宗に改めたとき、本尊阿弥陀像とともにこの地に移ったと伝える。金竜山と号し、いまは浄土宗西山禅林寺に属する小寺であるが、本堂に安置する薬師如来坐像(鎌倉)は半丈六の巨像で、寄木造り、右手は施無畏の印を結び、左手に薬壺を持っている。切れ長の眼に鼻筋の通った面貌は荘重味があり、豊満な体躯を包む衲衣のひだは大まかなうねりをなして起伏し、柔らかな手法をみせている。

またこの地が法性寺の十王堂址に因んで、十王像や地蔵菩薩像(江戸時代)等が安置され、さらに紙本墨書「法性寺略縁起、附薬師再興縁起」および紙本彩色「十王図」一幅等、旧法性寺ゆかりの什宝を有する。

十王信仰、人が死ぬと7日目ごとに、10ケ所の、あの世の裁判所をめぐり、生前の善悪を厳重に審判される。その5番目が閻魔大王の地獄の長官の前である。

当寺には秦広王から五道転輪王までの十王が祀られている。これらの十王は、伏見人形のルーツの1つにつながるであろう点に注目されている。

本尊阿弥陀如来(立像約60㎝)は、寺伝では鑑真(688~763)作といい、行基(668~749)作ともいわれるが、童顔のやさしい顔である。

丈六の薬師如来坐像は、寺伝では、旧法性寺中堂の本尊といわれるが、鎌倉時代の作の説もある。法性寺衰退後、三ノ橋北詰(今の本町18丁目)の薬師堂に祀られ、明治10年、当寺に移された。薬師堂時代の天保元年(1830)地震のためにかなり損傷し、修復されている。

 

旧 十王堂

 寺院 前回の記事 ➡  寺院東0334 遺迎院  浄土宗西山禅林寺派

五七五

変装をしたつもりでも会釈され /李麗

ことわざ

慌てる乞食は貰いが少ない(あわてるこじきはもらいがすくない)

仲間よりも早く多くもらおうと慌てて欲ばる乞食は、人々の反感を買って、もらいが少なくなる。慌てふためいて急ぐと、かえってよい結果がえられないというたとえ。

用・せっかちな人、慌てている人に対する忠告、からかいのことばとして使う。

類・慌てる蟹は穴へ入れぬ

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神社東0085 田中神社

2017年02月07日 06時38分45秒 | 神社

 

稲荷神社  境外摂社   田中神社

御祭神 田中大神

火焚祭 11月11日 午後2時

月次八午祭、祈年祭、新嘗祭時、本社より巡拝

構造 一間社見世棚造 銅板葺

建立 正保2年(1645)

 

この神社は、伏見稲荷大社の境外摂社で、社殿には正保2年(1645)の棟札が残されている。昭和7年に大修理がなされ多くの部材が取り替えられたが、蟇股や虹梁等は、彫刻絵様等から見て正保造営時まで遡ることが出来るものと考えられる。境内には正保造営時奉納の石灯籠や天保13年(1700)寄進の手水鉢がある。創建は不明だが、古今著聞集や十訓抄にはすでに田中の社の記述があり、次の様な話が伝わっている処から和泉式部の在世の一條天皇(在位986~1011)御代には建立されていた。平安期の歌人和泉式部が稲荷詣の途次、田中の社近くで時雨に会い難渋している時、田を刈る童から襖(雨具)を借り、無事にお参りできたので、童に襖を返した。すると翌日、童から式部に和歌が贈られてきた。

時雨する 稲荷の山の もみじ葉は

    あおかりしより おもいそめてき

平安の昔より社名の如く五穀豊穣の神様として、今日まで永く信仰されてきた神社である。

由来として田の神を祀るだけでなく、稲荷山から東寺五重塔建立の材木を搬出した時の、輸送基地的な場所の名残がある。

俗に「稲荷の叔母神」といわれ、田中神と四大神を祭る。

当社はもと車坂(かえり坂)のほとりにあったが、東福寺の造営に当たって、現在の地に移したと思われる。藤原宗忠の『中右記』に天仁2年(1109)11月10日、稲荷の上社に参詣の際、帰坂をくだって田中明神社を拝し、法性寺東大門前にて輿に乗り、京の家に着いた旨をしるしている。

 

関連記事  ➡    和泉式部 誠心院 真言宗泉涌寺派

          ポスター0013  和泉式部忌法要  誓願寺  6月18日 

          人物019 和泉式部

 神社 前回の記事 ➡  神社東0084  瀧尾神社

 五七五

今誰か手が触れたなら負けちゃいそ /花咲オババ

ことわざ

有る時払いの催促なし(あるときばらいのさいそくなし)

金銭の貸し借りに際して、期限や金利を決めないで、都合がついたときに返し、貸し主からの催促もしないという返済の条件。出世払い。お金があるときに、すぐに返せば催促されることはないという意味ではない 

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