円城山と号し、臨済宗南禅寺派の門跡寺院で、もとは鹿ケ谷比丘尼御所または谷ノ御所と称した。慶長17年(1612)頃、後陽成天皇女房大納言典侍は天皇の崩御に際して出家し、一宇を建立してその菩提を弔われたが、正保元年(1644)没せられた。その遺志を継いで、承応2年(1652)後水尾上皇の皇女多利宮を開山として建立したのが当寺の起こり。貞享2年(1685)後西天皇の皇女、普賢院宮宗栄尼(当院2世)のとき、父天皇の旧殿を賜って現在地に移建された。今の表門・玄関・書院・居間はこの時の建物で、書院の襖絵は岡本豊彦の筆になる。「滝水図」「梅雀図」「四季耕作図」をはじめ、狩野派の画家になる花鳥図等が描かれている。
本堂は、徳川家斉の寄進によって建てられた。堂内に安置する本尊如意輪観音像は如意寺の遺仏と伝わる。
庭園は、南庭、東庭、本堂前庭に分かれる。庭内には、後水尾天皇遺愛の散椿をはじめ、数々の椿の名木がある。寺宝として後奈良・正親町・後水尾・後西各天皇の宸翰をはじめ、親王・女王の多くの遺品を伝えている。中でも皇室より御下賜の御所人形が多数所蔵されている。
南側の塀
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後陽成天皇 ➡ 寺院東0356 泉涌寺 3
寺院 前回の記事 ➡ 寺院左0369 瑞光院
五七五
三ツ星も敵わぬ妻の目分量
ことわざ
好きこそ物の上手なれ
左 妙見宮 右 不動堂
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寺院前回の記事 ➡ 寺院左0370 霊鑑寺 御所人形が有名
五七五
桂川川面に光る神輿船 /野田
ことわざ
知恵は小出しにせよ
此奥 俊寛 山荘地
後白河上皇(1127~92)側近の僧である法勝寺執行俊寛(生没年未詳)は,治承元(1177)年6月,自らの山荘で平氏打倒の密議を行い,その首謀として薩摩国鬼界島(現鹿児島県硫黄島)に流された。この石標は,世にいう鹿ヶ谷の謀議が行われた山荘跡地を示すものである
昭和14年3月 建立 京都市教育會
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道標 前回の記事 ➡ 道標左0113 俊寛僧都旧跡道 八丁
五七五
静かな夜 二人語らう設計図 /山本
ことわざ
人間僅か五十年
俊寛僧都旧跡道 八丁
昭和十一年四月建
俊寛僧都の石碑 ➡ 石碑左0116 俊寛僧都忠誠之碑
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道標 前回の記事 ➡ 道標東0112 青蓮院宮御墓 参道
五七五
考え考え抜いて元の位置 /的場
ことわざ
腹八分目に医者いらず
高野山真言宗の寺院として1954年に開かれた。2014年開山60周年を記念して柴燈大護摩大祭と火渡り修行が営まれた。家内安全や先祖供養を祈願した護摩木を次々と入れた。
護摩壇が燃え上がった後、僧侶たちは素足で渡る修行を行った。
寺院 前回の記事 ➡ 寺院左0368 安養寺
五七五
かすり傷 言えぬ痛みの侘しさよ /高橋
ことわざ
酒は百薬の長
高さは 約10メートル
滝の傍にもと如意寺の楼門があったのでこの名がある。如意の滝ともいう。
このあたりの桜は江戸時代からあり、小沢芦庵も花見に来ている。
小沢蘆庵 ➡ 蒲生君平・小沢蘆庵 石碑
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0481 京都一周トレイル 東山コース 46
五七五
幸せの笑顔咲かせる苗を植え /寺田
ことわざ
笑う門には福来たる
平成27年9月27日 の記事
阿弥陀堂門 御影堂門は現在修復中
東本願寺
真宗大谷派の大本山 正しくは本願寺といい、俗に東本願寺と呼ばれる。
慶長7年(1602)、隠居中の12世法主教如上人が徳川家康の帰依を得、
六条烏丸の地に方4町の寺地を受け、本願寺より別立したのが起こりである。
天明の大火後、しばしば火災の災難にあったが、その都度幕府の庇護によって再建された。
末寺8500、門徒500万人その信仰は広く、深い。
阿弥陀堂
本堂ともいう
御影堂
15年の歳月を要して本堂とともに明治28年(1895)に竣工した。
この工事には、巨大な材木を引っ張るために普通の綱では間に合わないので、
全国の信徒の寄進による女人の頭髪で、53本の毛綱を作って使用したという。
平成29年6月9日 画像追加 (平成28年11月26日 撮影)
改修 完了
寺院 前回の記事 ➡ 寺院下0375 権現寺 浄土宗
五七五
街角の 確かこのへん 喫茶店 /古崎
山を下りていくと 突然大きな 岩に出くわしました
俊寛僧都の石碑です
法勝寺執行俊寛(生没年未詳)は治承元(1177)年6月,自らの山荘で平氏打倒の密議を行い,その首謀として薩摩国鬼界島(現鹿児島県硫黄島)に流された。この碑は俊寛山荘跡を示すものであるが,その根拠は碑文によれば建碑者西垣精之助の夢に出た場所であるという。
俊寛僧都忠誠之碑
公爵一条実孝書
少し 下ったところには 碑文の書かれた大きな石碑
俊寛僧都鹿谷山荘遺址碑記
自古志士憤権姦暴虐劫上残下図除之以安天下事成則為義挙不成則乱賊豈可徒執成敗之迹以」
推断情偽況史書所伝往々為権家曲筆千載之下何以取信乎平清盛弄権擅為威福族党挙為朝官」
采邑半於天下視天子如家人子弟苟有不便於己者更立無憚至一時有二三上皇而其虐百姓甚於」
土芥民怨且懼道路以目 後白河法皇患之亦末如之何於是有俊寛僧都鹿谷山荘之会権大納」
言藤原成親為 法皇執事与其子成経謀奉 院宣討平氏院北面藤原師光藏人源行綱検非違」
使平康頼等与焉俊寛 村上天皇七世孫寛雅之子以僧都為法勝寺執行素深嫉清盛不臣及聞」
成親等計慨然密相結託約率奈良僧兵応之数会山荘計事将襲平氏部署已定未発行綱走告清盛」
清盛大怒殺師光流成親放成経康頼俊寛於硫黄島尤悪俊寛既而成経康頼赦帰俊寛独餓死島中」
時年三十七見其尤悪於清盛可以知材略卓異致心王室之深矣夫俊寛緇徒也身居方外烏有冀世」
栄之意其攘袂奮起者唯由不忍坐視平氏横暴上下窮蹙而已使其事成天下蘇息朝威得振而世必」
以為義挙矣惜豎子反覆*事空銜積寃七百餘年史書亦無白其志乃山荘則委為狐兎巣窟寒烟蔓」
草無復過問不亦可悲乎西垣精之助君素負気節以鼓起世道人心為念一夕夢遊山荘覚而捜訪」
其地樹石一如所夢見心異之遍検書史知俊寛志存于義憤也欲建碑以彰遺址而慰寃魂擲購地」
二千餘歩一条実孝公#其志手書俊寛僧都忠誠碑七大字$之乃屬予作文記之%得以此白其」
寃且伝遺址于後於世道人心其有所裨乎謂之君志
昭和十年歳在乙亥九月 香川長尾甲并&書 西垣精之助建
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石碑 前回の記事 ➡ 石碑東0115 大隈重信御手植えの松
五七五
紫陽花もわたしも慈雨にほっとする /染山
ことわざ
雨垂れ石をも穿つ
左中央の森は京都御苑
左手前の森は吉田山
手前の森から 金戒光明寺、吉田山、京都御苑、二条城
足元は 大文字送り火の火床
金戒光明寺、その左に岡崎公園一帯、右方に吉田山、奥の大きい森は京都御苑、
その左奥が二条城、さらに右奥が双ヶ丘
手前から 吉田山、鴨川・高野川の合流点、中央の奥に伸びる道は今出川通り
金戒光明寺、右方に吉田山、奥の大きい森は京都御苑、その左奥が二条城、
さらに右奥が双ヶ丘
金戒光明寺、その左に岡崎公園一帯、右方に吉田山、奥の大きい森は京都御苑、
その左奥が二条城、さらに右奥が双ヶ丘
火床
大文字送り火は冥土帰る精霊を送るために行われる盂蘭盆会の行事の1つである。起源は民衆が戦没者のための鎮魂の火として、また疫病払いのためにと、戦乱の収まった江戸時代初期頃に創始されたという。点火に当たっては、浄土寺町の有志の人々の奉仕により、行われる。精霊の送り火のみならず、悪疫退散・王城鎮護を祈願する宗教行事でもあるところから、古来これに付随していろいろな俗信が行われた。丸い盆に水または酒を入れ、これに送り火をうつして飲むと、中風にかからないといわれ、また当日、松割木(護摩木)に自分の名前と年齢を書き、山上の火床の松割木とともに焚くと厄除けにきくとされている。
岡崎公園一帯 手前の森は金戒光明寺
なぜか猫がいました
中央の森が京都御苑
北方面 奥の建物は 焼却場
中央やや左よりのピークが愛宕山
北方面 鴨川の上流 樹木が多くわかりやすい
左寄りの 3つの山が 双ヶ丘
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まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き左0478 大文字山で 木の根
五七五
あじさいが1年振りの自己主張 /掛川
ことわざ
災害は忘れた頃にやって来る
平成27年4月10日
唯一 北野天満宮の境内で店を出している
天正年間 (1573~1592年)の創業 古い まあよく続いています すごい
平成29年6月8日 画像追加
右書き看板上121 餅郎五長
右書き 看板 前回の記事 ➡ 右書き看板伏119 店支屋河駿
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き東0079 鳥辺野(とりべの) 阿弥陀ケ峰(豊国廟)参道