中学校の立志式というものに参加したというか見物に行った。そういえば昨年は痛風発作のために松葉杖で参加したのだったなという苦い思い出のある行事なのだが、今年も共通するのは寒い日の体育館ということであって、あまりの寒さに心が萎えそうになった式典だった。これだけでも中学生は偉いのではないかと考えたくらいだった。
いや、立志式にて考えていたのは、ずいぶん昔の数えの元服の時に志を立てるという行為にあやかって現代の中学二年生にお説教をしたいという大人についてなのだった。
以前は大人だったからといって、中学二年生はそれなりの大人なのかという疑問の方が先に立ってしまうのだ。断じて大人であるという人もあるのかもしれないが、それは大人という定義づけにおいて違いがあるためであろう。また、大人であってほしいという願いについても、それ自体にも疑問に感じる。まだ子供だったっていいんじゃないかというような心情が僕自身にあるのも確かで、すでに長男が中3ということにおいても、どうにもやりきれない寂しさを感じるくらいだ。しかし彼なりに大人になってきたということは認めてもいいけれど、やはりそれは大人になったということを認めたことにはならない。むしろ当然のように彼はまだまだ子供である。そしてそれは当然のようにそれでいい。
さて、今の中学二年生だが、昔は元服という年頃なのだよ、と言ったって、昔の中二ではない数えではない14歳の人間が、本当に大人だったのかということの方が検証する必要がありそうに思える。時代が違うのだから違うということは言えそうではあるにせよ、だからといって今の大人と昔の大人でさえ違いそうなのだから、昔の立志の年頃の人間をどのように評価して捉えるのかということにはかなりの冒険が必要だろう。今より大人なのではないかという予想をする人が多いようには思われるにしろ、それが事実としてそうであるという確証にはなりはしない。むしろ大人のように見えるという外見より、内面的には本当は子供だったかもしれないというような予想だって簡単に立てられることなのではあるまいか。落語の世界ではないが、商人の子供などまだまだバカ息子というような人物の描写がみられる話も聞いたようなこともあるように思うし、むしろ今より情報的に狭い社会において生活していることを思うと、田舎者が単純に都会に出て行ってたじろぐがごとく世間知らずの子供っぽい面がむしろあったのではなかろうかとさえ思う。田舎者は子供とは言えないが、都会の人間が田舎の人間を純朴に馬鹿にする目の奥には、子供を相手にするような偏見があるのではないかとは思う。
よくは分からないことで比較しても仕方がないが、むしろ今日の日は、半分は大人になった少年たちが僕たちに付き合ってくれて話を聞いてくれるありがたい日だったのではないか、というようなことが頭に浮かんだわけである。理由は子供たちの問題というより、大人たちの話を聞いていてである。後半の講演は所用で中座したから全部は知らないにしろいい話のように思えたので除外するということを了解してもらった上で、前半の式典は大人たちのためにあった可能性があるように思えたのだった。ここまで書いていまさらの感が強いが、もうこれ以上は詳しく書きたくない気分にはある。
大人が本当に大人であるためには、大人としての自戒が必要だと、もちろん僕自身を念頭に置いて、そう思う。今、本当に教育をやり直すとしたら、真っ先に取り組むべきは子供たちの方ではないというのが正直なところだ。子供は大人の鏡というではないか。目の前の鏡を見ておかしいと感じる人は、まずは自分が襟を正すべきだろう。
もちろん僕は目の前に座っていた子供たちを見て、実に立派な中学生だと感じた事は正直なところである。少なくとも僕の同じころの姿より、間違いなく立派な人たちなのであった。もっと子供として頑張ってほしいものだと願うばかりである。
いや、立志式にて考えていたのは、ずいぶん昔の数えの元服の時に志を立てるという行為にあやかって現代の中学二年生にお説教をしたいという大人についてなのだった。
以前は大人だったからといって、中学二年生はそれなりの大人なのかという疑問の方が先に立ってしまうのだ。断じて大人であるという人もあるのかもしれないが、それは大人という定義づけにおいて違いがあるためであろう。また、大人であってほしいという願いについても、それ自体にも疑問に感じる。まだ子供だったっていいんじゃないかというような心情が僕自身にあるのも確かで、すでに長男が中3ということにおいても、どうにもやりきれない寂しさを感じるくらいだ。しかし彼なりに大人になってきたということは認めてもいいけれど、やはりそれは大人になったということを認めたことにはならない。むしろ当然のように彼はまだまだ子供である。そしてそれは当然のようにそれでいい。
さて、今の中学二年生だが、昔は元服という年頃なのだよ、と言ったって、昔の中二ではない数えではない14歳の人間が、本当に大人だったのかということの方が検証する必要がありそうに思える。時代が違うのだから違うということは言えそうではあるにせよ、だからといって今の大人と昔の大人でさえ違いそうなのだから、昔の立志の年頃の人間をどのように評価して捉えるのかということにはかなりの冒険が必要だろう。今より大人なのではないかという予想をする人が多いようには思われるにしろ、それが事実としてそうであるという確証にはなりはしない。むしろ大人のように見えるという外見より、内面的には本当は子供だったかもしれないというような予想だって簡単に立てられることなのではあるまいか。落語の世界ではないが、商人の子供などまだまだバカ息子というような人物の描写がみられる話も聞いたようなこともあるように思うし、むしろ今より情報的に狭い社会において生活していることを思うと、田舎者が単純に都会に出て行ってたじろぐがごとく世間知らずの子供っぽい面がむしろあったのではなかろうかとさえ思う。田舎者は子供とは言えないが、都会の人間が田舎の人間を純朴に馬鹿にする目の奥には、子供を相手にするような偏見があるのではないかとは思う。
よくは分からないことで比較しても仕方がないが、むしろ今日の日は、半分は大人になった少年たちが僕たちに付き合ってくれて話を聞いてくれるありがたい日だったのではないか、というようなことが頭に浮かんだわけである。理由は子供たちの問題というより、大人たちの話を聞いていてである。後半の講演は所用で中座したから全部は知らないにしろいい話のように思えたので除外するということを了解してもらった上で、前半の式典は大人たちのためにあった可能性があるように思えたのだった。ここまで書いていまさらの感が強いが、もうこれ以上は詳しく書きたくない気分にはある。
大人が本当に大人であるためには、大人としての自戒が必要だと、もちろん僕自身を念頭に置いて、そう思う。今、本当に教育をやり直すとしたら、真っ先に取り組むべきは子供たちの方ではないというのが正直なところだ。子供は大人の鏡というではないか。目の前の鏡を見ておかしいと感じる人は、まずは自分が襟を正すべきだろう。
もちろん僕は目の前に座っていた子供たちを見て、実に立派な中学生だと感じた事は正直なところである。少なくとも僕の同じころの姿より、間違いなく立派な人たちなのであった。もっと子供として頑張ってほしいものだと願うばかりである。