カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

あんまり迷わない日常の支えだが

2012-03-10 | 

 一時期は熱心に蕎麦を食っていたことがあって、特に昼時になると蕎麦屋の暖簾をくぐりたくなって仕方が無かった。たまに違うものを食うということはあるにせよ、ずっと蕎麦でもかまわない、という気分になったりするのである。ひとつは昼に何を食うのか迷うのが面倒だというのもあるし、蕎麦だと時間が無くても食えるので汗をかかなくていいというがあるし、それにやはり飽きのこない素朴な味であるというのが何よりだろう。時々温かい蕎麦を食わないではないが、基本的に冷たいものを食べる。それ以外を認めないような狭量な心持はまったく無いけれど、温かいのは一応別物という感じなのかもしれない。
 例えば駅の構内にある蕎麦屋なら、温かいやつしか無い場合があって、そういうのは駅蕎麦としてのひとつのジャンルである。これはあんまり旨い必要が無くて、むしろあんまり旨くない程度を持って満足感が得られる。もっともそんなに感動的に旨い駅蕎麦があるのを知らないので、そう思うのかもしれない。浜松町の醤油くさい蕎麦を食べて、ああ、東京に来たなあと思っていたのは、いい思い出である。今ではそれなりに意識が高まったのか、東京の汁蕎麦もそれなりに旨くなってしまったが。
 最近に限らずだが、蕎麦というのは妙に高級な食べ物屋さんになっているところも多い。それはそれで住みわけだからいいんだけど、たまにこれだけの量で本当にざる一枚なのだろうかと驚くこともある。重さにするとなんだか二百グラムもなさそうだ。最初から言ってもらえれば、あらかじめ大盛りにするとか数枚頼むとか、はたまた最初から入らなかったのだけど、出されてから驚くことが多いから蕎麦屋は油断がならない。そういえば店構えがということもないではないが、そんなに構えるほどではなかったのだけど、御見それしましたという場合があるのである。これは当たってしまったものは仕方がない。それなりに自信はあるらしく、不味くは無いがだまされてしまったような…。
 以前は都市部にしかそんな店は無かったから、場所代が高くて難儀しているのだろうくらいに考えていたのだけど、近ごろは田舎の郊外にあっても、このような立派なお店が増えてしまった。繰り返すが住みわけだから、こういう流れは一定の支持があるものなのであろう。せっかく立派なのだからお上品に食して帰るより無いけれど、小腹の足しにもならない場合は、もう少し蕎麦湯をたくさん出してくれるとか、考えてくれてもよさそうなものだとは思うのであった。
 そういう訳で僕の場合、もっぱらスーパーの干麺をたくさん茹でてもらって、盛大に盛った奴をズルズルやる方が幸福度が高いようだ。蕎麦湯だって飲み放題だ。聞くところによると蕎麦の方がうどんよりカロリーが高いそうで、なおかつ栄養価はあんがい低いんだそうだ。つくづく貧しい体に合う食べ物なんだと、感心する次第であります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする