カーペンターズのドキュメンタリーを観た。
当時は売れている絶頂期にあって、ほとんどの音楽誌や批評家に酷評されたということだった。いわゆるアメリカの時代の空気にぜんぜん合っていないにもかかわらず、売れに売れまくったからである。時代に合っていないのに売れるというが彼らの実力の高さを今となっては証明している訳だが、何しろ当時はマリファナ吸いながら強烈なことを言わなければ面白くもなんともないし、過激な時代批評なしに歌を歌うことはくだらないこととされていたらしい。
僕はまだ小・中学生だったから何となくしか分からないが、そういう過激さが日本に足りないから不満だったくらいで、確かにカーペンターズは町中に流れて知っていたものの、若い僕は何の興味も無かった。どう考えてもツェッペリンの方が数段かっこいい。同級生の連中は、なんでこのカッコよさがわからんのだろうと、本当に心配してたくらいだ。
まあしかし僕がカレンに感心したのは、実は彼女がドラムを叩きながら歌うのを見てからである。なんとカッコいいんだろう。ドキュメンタリーでは本人は歌うドラマーという認識があったらしく、歌に専念するのを大変にためらっていたそうだ。しかし周囲の要望がそのような希望を許さず、仕方なく徐々に歌だけに専念せざるを得なくなる。実にもったいないことだったとつくづく思うのであった。何しろリズム感やテクニックが、非常に抜きん出ているではないか。
後にカレンは摂食障害(拒食症と過食症を繰り返したりしたらしい)がもとで亡くなることになるのだが、親子関係や若いころに少し太めだったことを気にしていたことが、その症状を引き起こした原因になったのではないかといわれている。
しかしながら僕はこのドキュメンタリーを見ていて、彼女の周りの要求に合わせるという性格が、そのような症状となって自分自身を苦しめたのではないかと疑いを持った。カーペンターズが世界中で愛された一番の要素は、彼女のストレートな歌い方だったようにも思うにせよ、カーペンターズそのものの核となる才能は、やはり兄のリチャードによるものだろう。兄のあり余る才能に感化され、尊敬もし期待に応えようとして、さらに自分を完全な形で表現しようとしていた妹の姿が、手に取るように感じられるのである。
実際に期待以上に才能を発揮し、兄自身も実は妹のシンガーとしての偉大さに嫉妬に似たようなものも感じていたようにさえ思われた。ピアノプレイヤーとしてだけでなく、曲を作ったりアレンジしたりする人より優れた才能があるという自負を持ちながら、もし神様に何か一つお願いが出来るならば、シンガーとしての才能を欲しいと願っていたと告白するのである。
暗に、この兄の強い願望が、妹のカレンを逃げ場のない苦しみへ追い込んだのではないだろうか。ドラムが好きな歌の上手い女性が、人々の要望のままに歌に専念せざるを得なかったのである。ドラムをたたきながらだから自由に表現できた歌が、不自由な姿勢で歌わざるを得なくなるということになってしまったのではなかろうか。
摂食障害になるのは、圧倒的に女性が多いのだという。自分をどの様に見せたいという考え方とも関係があるのだろうけれど、ある意味で自分自身をどの様にかするというのは、人目に対する期待にこたえるという、自分をある意味で曲げるような行為を含んでいるとは考えられないだろうか。自分自身の食べたいという欲求を捻じ曲げてまで、必要以上に見た目を気にしすぎるということが、病的な摂食障害を引き起こしてしまうのではなかろうか。
つくづく人のための人生を送るというのは、やはり本当には自分のための人生では無いのかもしれない。もともと他人に迷惑をかけるからこそ、人が生きていくという正直な証となるのかもしれない。もちろん程度問題はあるにせよ、そのようなことを許しあえる人間社会でなければ、個人の幸福など実現できないような気がしたのであった。