「どうして人を殺してはいけないのか」という質問があるらしい。厳密にいうと、子供からその様な問いかけがなされるという設定である。そのこと自体に無理があるような気がしないではないという前提はあるにせよ、この質問にあれこれ答えるというのが、ある種の大人の責任のような言い方をする人もいる。また、単にこのような設問を発する現代の子供に対する嫌悪へ展開するのも、よくある話だ。なんというか単に不毛な感じも、何となくやるせない感じもするように思う。驚きたいのは少しばかり分からないではないが、それが実際そんなに困ったことなんだろうか?
それというのも、そんな質問を僕自身にされてみたいもんだなあ、という思いもあるというのが正直なところだ。別に明確に答えられる自信があるというのではない。そうでは無くて、むしろその様に疑問に思うというのは、その子供はなかなか見所があるではないかとも思う。
本当にごく正直に言わせてもらうと、僕はどうして殺してはいけないのかは良く分からない。それというのも、実は殺してもいい場合があるんじゃないかという疑問があるからだ。実際に殺すというのは確かに物騒な話だけれど、さまざまな状況下において殺さざるを得ない場合も、人間の歴史の中では体験した人々が、恐らくたくさん居ただろう。その人たちはどのように考えて、実際に人を殺すにいたったのだろう。
自分の快楽のために殺すというのはちょっとのけてみると(レクター博士のようなものはちょっとね)、戦争や古代の人類のように殺さなければ自分が殺されるという場合は、殺すことが生き残る大切な術だったと思われる。後に負けた方が戦争責任を取らされるということはあるだろうけど、まあ、これは倫理としてどうこう言ってもしょうがない。
また、鴎外の高瀬舟という場合もある。罪に問われるというのはあっても、これを倫理的に悪いとはやはり考えられない。まあ、それ自体が難しい問題にせよ。
罪に問われても良いというのなら、ある程度の覚悟があるのなら、殺しても良いとまで言わないまでも、実際に殺せてしまう世の中であることも確かである。もちろんその抑止であるとか、その後の処置として法というものが整備されているということは言えるまでも、たとえ間違った考えだということであっても、殺すという決意を止められないのであれば、殺人というのは可能である。その様な状況が誰にでもあるはずが無いと考えているのかもしれないが、しかし同時に本当に人を殺したくなるような感情を抱かなかった人間というのは、そんなに多数なのだろうか。
もちろん僕自身は人殺しをしたことは(残念ながら経験として語れないという意味で)無いけれど、殺したいという感情を持ったことぐらい普通にあるものである。何故思いとどまったかというと、怒りが適当に治まったからというしかない。単に運が良かっただけかもしれない。もちろんそれで本当に殺す技量があったかどうか、という問題はあるのだが。
結局は殺せなかったという経験が、抑止力になる場合があるのだと思う。今となっては殺すのは割に合わないし馬鹿らしいので(どのみち殺そうという人間だっていつかは死ぬ)やらないだけの話だが、絶対捕まらないのなら、特段殺していい人間だって居そうなものだ。血を見るのは気持ち悪いので嫌だけど、倫理の事から外れるのであれば、どうして殺さないでいいのかというのは、よく分からないではないか。
まあしかし、ここまで読んでも、じゃあ殺してみるか、という人はたぶんそういないだろうことは予想できる。もちろん子供であってもそうなんじゃなかろうか。試しに僕を殺すといわれても困るけど、まあ、殺せないだろうね。煽ったらそれだけ危ないかもしれないけれど、人を殺さないというのはそういうことじゃないだろうか。分かっていることを他人に聞いてよろこんでも、単に趣味の悪い話だということだろう。