神社に行ったらおみくじを引く。それは特に問題がある訳ではない。しかしながら我が息子は、おみくじを引くから1000円くれという。大吉を引くためにはそれくらいは必要と考えているらしい。もちろん足りなければ足す必要があるのだろう。
実は僕自身も、若い頃にはおみくじを数千円買った事がある。理由は同じ。いわば意地になって、大吉が出るまで引き続けた。どおりでギャンブルには向かないはずだ。今はパチンコ屋には、極限の便意や尿意が起こらない限り行かない。
ある意味で運というものを金で買うことは、運というものをコントロール出来るという考えがあるからだろう。
朝の番組に0655というのがあって、月曜には「たなくじ」というコーナーがある。僕はこれを録画し、そして携帯電話のカメラで写真に収める。タネを明かすと、一度に3回くらいは写す。いいものだけをFBなどにUPすることもある。
実はリアルでは、ほとんどおみくじは引かない。たぶん興味もあまり無い。いや、他人が大吉を引くと嬉しいから、少し矛盾した考えを持っているのかもしれない。
今年は他人のおみくじを代わりに引いてくれと頼まれて、三枚引いて二枚が大吉だった。学生の頃数千円をはたいて買うほど縁の無かった大吉だけど、今は普通に引くような気がする程度には運がついているものらしい。もちろん自分のために引いたものではないから、まったく当てにはならないが…。
たくさんの金をはたいておみくじを買わないのは、単にせこいだけのことかもしれない。特に吝嗇家という意識は無かったが、ケチなところはたくさんある。風呂に入っても服を着替えないと、よくつれあいに叱られる。そういうことに頓着しないのは、まだ着られるものを替える気がしないほどケチなんだということだろう。鶏肉では軟骨が好きで、いつまでも骨をしゃぶっている。きれいに食べるといって褒められたことは無い。たぶん、ひもじいのではないかと思われているに違いない。
実は運に左右されたくないという思いがあるのだと思う。運というものはあるのかもしれないが、しかしそれを認めるほど自分に力が無い訳じゃない。傲慢な考えだが、僕なら考えそうなことである。いや、実はそんなに力がある訳でもないんだが、運にだけ頼るのは申し訳ないということも言えるかもしれない。神社に恩を感じても、返すものは何もない。いくばくかの金で運を分けてもらって、本当にそれで済むものなのか。そういうことを疑っているのかもしれない。
つまり若い頃とたいして変わらない。おみくじに金をつぎ込もうとする息子は愚かだが、僕には何も笑う資格など無いということなのであろう。