カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

リアルが滅びの象徴へ   借りぐらしのアリエッティ

2013-01-10 | 映画

借りぐらしのアリエッティ/米林宏昌監督

 ジブリのアニメは宮崎駿だと思っている人達(もちろん僕も)を相手取って作品を仕上げるのは、困難なことだろうと思う。宮崎の強烈な作家性が大衆にウケてしまうのも考えてみると大変なことなのだけど、しかしやはりそれは天才なのだから仕方が無いのだ。レベルがどうだということは最初から度外視していいとは思うのだけど、しかしそれでもジブリという代名詞がそれを許すか。しかし予告では紛うことなくジブリっぽい絵柄。評判もまずまずといった手ごたえが感じられていた。それは何故かと思ってみた訳だが、なるほどジブリ性が爆発していることは間違いないのだった。
 話の筋はすれ違いとなんだか悲しい種族の存在のみを紹介するという内容。借り暮らしというのは何かの暗喩かもしれないが、しかしそういう弱さはやはり滅びる運命ということも暗示している。それでいいのかは分からないが、ある程度の豊かさのおこぼれが無ければ生きられないということで、まさか経済優先主義をうたっている訳ではないのが不思議だ。人間でもないのに人間のような形をしている不合理も、やはり何かもう少し何かを語るべきだったかもしれない。まあしかし、小人がいた方が人間が楽しいということはあって、そこらあたりは当たり前の物語ということかもしれない。
 小さくなってみると見える世界という設定を映像化したかっただけだ、ということも言えるかもしれない。ああこんなふうなのか、と思わせられる訳だが、しかしそれは本当か? 時々小さいか大きいかよく分からなくなる時があって、それは小さい世界ほど活き活きとした躍動感の消える時で、そうなってみると、大きい世界、つまり僕らの日常世界に小さいものがいるということに過ぎなくて、なんだかやっぱり少し魅力が薄れる。しかし小さいままではミクロの決死隊で、それはそれでつまらないのかもしれない。
 小さい世界で昆虫たちを見ると、なんだかそれは無機質な感じもした。人間だってそうで、どうしたってゴジラのような事になるかもしれない。時間の流れのようなものが違う可能性もあって、しかしそれはどのように表現していいものか。既に出来上がっている絵の動きに、あれこれ注文を付けてみたくなる。目の前にありながら架空の世界を表現すというのは、それはそれで冒険だったということかもしれない。
 ということで、アニメもやはり音楽や絵画を楽しむように観るということを提示しているのかもしれない。しかしながら小人の少女は自分の将来に何を思っているのかということも、妙に気になる展開だった。子供の頃にそんなことがあったとして、しかし大人になった時に、父の様に同じ道を歩むものなのだろうか。母は誰が甘やかしたのか知らないが、小さい世界をたくましく生きていけてはいない。たぶん母のようにはならないだろうことは予想できるにせよ、本当に彼女は家庭を持つことになるんだろうか。相手がいるらしいことが分かるが、それはたぶん選択ではなさそうだ。もちろんそうなってみるともはや人間では無いのだから、人間の尺度で見るべきことではないということなんだろうか。
 人間社会であっても、多くの種族は滅んでしまったのかもしれない。現代社会に溶け込んでまぎれてしまっているだけの場合もあるかもしれないが、独自の種族で生きながらえるのはやはり困難なのであろう。借り暮らしは小さくて経済的だから可能だと言いたいのかもしれないが、実際には下水などの隠れた問題は必ずしも映像化出来た訳ではない。知らないままだから済んでいる話は、露呈すると大問題だったりする。それに彼らの運動能力では、野生の動物と渡り歩くのは至難の技だろう。
 リアルを追及すると、おとぎ話も消えてしまう。そこらあたりが難しい訳で、つまり詳しくは描けない程度の物語の切り取り方も必要だったのであろう。緑や森を描くために、次は何を題材に選ぶべきなのだろうか。
コメント
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