嗤う分身/リチャード・アイオアディ監督
ドストエフスキーの小説を原作にしているらしい。まあ、原案に用いて、現代か未来か分からないが、舞台を創作の世界観に持って行ったものだろう。
がらがらの電車に座っていると、そこは自分の席だから立てと命じられるなど、何か不条理な状態に置かれている男がいる。身分証を無くすと、よく見知っている警備員から覚えられておらず、会社にも簡単に入ることすらできない。上司からも認められず、淡い恋心を抱いているコピー係の女性にもうまく話しかけることができない。実はこの女性の向かいのビルに住んでおり、夜な夜な望遠鏡で覗き見もしている。
そういう生活の中、会社に自分と瓜二つというか、実際名前が違うだけで、自分の分身が現れる。彼は、自分と真反対に要領がよく、上司にも気に入られ、女性にもモテてしまう。そうしてまるで、自分を窮地に陥れるようなことばかりするのだった。
不条理な世界の中で、作り物の物語は進行していく。現代のアメリカではないし、大佐といわれる支配者がいるようだが、そういう世界設定自体が作り物であるのは明確である。まるで悪夢のようだけれど、その中で彼らは生きている。それは間違いのないことらしいが、実際に起こることは観念的な不条理ばかりで、本当にリアルなのかどうかはよく分からない。ただし不条理に囲まれて窮地に陥った男は、どんどんどんどん追い込まれていく。彼の選択するやり方は、どうあるべきなのか。それは観ている側としては、かなり明確になるのである。しかしながらその選択をするには、かなりリスクがあるのだった。
例によって、またつまらないものを観たなあ、という映画である。どうしてこうもまあ、こういう選択ばかりしてしまうのか、自分に困ってしまう。何か面白そうな雰囲気を持っていて、すっかり騙されてしまった。一昔前のアングラ劇団が好んでやるような内容で、自己本位的で、何か変わったものを変わったようにやっている役者たちの映画という感じだろうか。こういうのが好きな人もいるんだろうけど、そういうのは地下で仲間を集めてやって欲しいという気もする。少なくとも日本にいる善良な僕まで巻き込まないで欲しい。
ということで、お盆は長雨にも悩まされ、こもっていてもこのような苦痛を加えられることになった。こういうのは、避けがたい災難の一種なのかもしれない。