カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

人の運命が見えるようになると   フォルトナの瞳

2021-09-22 | 映画

フォルトナの瞳/三木孝浩監督

 飛行機事故から奇跡的に生き延びることのできた少年は、その後車の塗装工をしている。ある日人の姿(手など)が透き通って見えることがあることに気づく。そうしてある透けて見える人の後をつけていくと、その人は車にはねられて死んでしまう。どうも人が死にそうにある運命だけは、分かる能力があるらしい。どうして死ぬのかは分からないが、その後何かが起こって死ぬことがあるらしいことから、その人の未来の行動をかえることで、死を回避することが可能らしい。しかしそうやって運命を変えて人を助けると、自分の寿命が減るということも分かるのだった。
 そうして一人の女性と付き合うことになりしあわせになるが、ある日多くの人々の姿が一様に薄くなる現象に遭遇する。付き合っている彼女もまた薄くなっており、同じ時刻に電車に乗る人々が一様に薄くなっていることから、大きな事故が起こることが予見される。男はどうしたら、その事故を防ぐことができるのだろうか?
 原作は百田尚樹の小説らしい。ネタバレっぽいが、そういう訳でこの作家のある傾向がみられる作風と言えるかもしれない。しかしながら映画であり、映画的なエンターティメント作品っぽく作られているのかもしれない。残念ながらそういうところが非常に馬鹿っぽいイライラ感を観るものに与えていて、不快感の方が強い。彼らがどうしてこういう行動をとる前に、一応の説明を果たそうとしないのか、まったく釈然としないためである。特にそういう荒唐無稽な話であろうとも、彼女はそれを理解していることは明らかなのだ。そういう場合は彼女を救う方法はもっと単純で明確にできるはずだ。自分の立場を危うくする方法ばかりとるので、ますます選択肢は狭まって窮地に勝手に落ちていくように感じられる。これではただの馬鹿が馬鹿な行動をとっているだけではないか。それが美しいというのであれば、勝手にどうぞ、である。
 他にもそういう間延びした表現が多いのだが、そういうのが一般の映画を観る客に対する分かりやすい演出のためだとしたら、それはそれで何かが間違っている気がする。そのためにこのお話の良さが損なわれているように感じるからである。
 例えば、運命が見えるために、一つだけその未来を知りながら何もしないエピソードがある。それはその人が嫌な奴だからである。そういう場面で、最初はそれなりに喜んで、しかし自己嫌悪に陥るような、そういう葛藤があるようなことになれば、もっと深みが増したかもしれない。などと考えながら観ていた。そういう人間くささこそ、この能力に秘められた面白さのように思うのであった。
コメント
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