池澤夏樹の随筆で藤沢周平の「うしろ姿」という短編と山本周五郎の「ちゃん」がいいとほめていたので、どちらも短編なので読んでみた。
読んだ順は逆だが、まず「ちゃん」の方から。飲んだくれの火鉢職人の男がいて、これが時代遅れの火鉢の製法にこだわり、新製品などに押され、売れなくなっている。収入は増えないし子供は多いし、そういうことでふてくされて毎日飲みつぶれているらしい。以前の友人が、力を貸すから別の仕事をやった方がいいというアドバイスをくれたりする。職人として力があるんだから、何か他のことでも十分才覚が生かせるだろう、という感じかもしれない。そういう友人たちの気持ちはありがたいと思いながらも、自分には火鉢職人として、ちゃんとした仕事をするということを生きがいにしているところがある。しかし子供には迷惑をかけているし、本当に心が苦しい。それを妻も飲み屋のおかみも子供たちも、みんな理解してくれている。そういう自分にも合点がいかないから、やはり今日も飲んだくれてしまう……、というお話である。なるほど、人間模様がよく描かれていて、お話としてなかなかの人情噺ということになるだろう。
もう一つの「うしろ姿」である。飲んだら酔っぱらって友人でも知らない人でも連れて帰ってくる男がいる。以前よりは稼ぐようになってはいるものの、狭い長屋の家に子供も寝ている。夫婦生活だって困るようなところに何で知らない人まで泊めなければならないのだろう。しまいには泊めた男から泥棒までされてしまう始末である。いい加減にしてほしいところ、今度は乞食同然の婆さんを連れて帰ってくる。ひどい悪臭もするしいくら何でも困るのだが、しかしなんとなく亡くなった舅に似てなくもない(うしろ姿が)。なんとか何日かなら、ということでふろに入れて小ぎれいにしてやると、今度ははぐらかして何日も動こうとしない。子供たちとは仲良くなっているし、近所からは偉いと褒められたりして、簡単に追い出すことが困難になっていくのだった。
どちらも確かになかなかに面白い。いい人たちだが、しかし困ったことには心の葛藤が激しくある。どうにかしないことには苦しさから解放されることは無い。ある程度正解らしいことは分かっちゃいるんだが、とてもそれができそうにない訳である。
なるほど、名作というのはこういうものかもしれないな、と堪能して読むことができた。
ただし「うしろ姿」の中の言葉の使い方で、一つ気になることがあった。お婆さんを追い出したとして、近所などから何か言われたってかまわないところだが、しかしそれは「にんげんとして出来ないことだ。とおはまは思った」という一文があるのだ。藤沢周平の作品は架空の藩の中の物語が主だが、やはり江戸時代のいつかであろう。だからあえてひらがなで「にんげん」としたのだろうと思うのだが、この頃に人間としてどうだという考え方は、おそらくなかったのではなかろうか。しかしながら現代人の読者である僕たちからすると、こういう人道的な感情は、人間としてどうだという表現の方がしっくりする。なかなか難しい問題なのである。
そもそも道で婆さんを拾ってきたとして、今の行政の福祉事務所などに相談するのが筋だし、そのまま引き取ってどうだという物語は書けない。昔の話だから成り立つ設定だろう。しかしその感情を複雑ながら損得なしで描こうとすると、何か適当な言葉がないのだ。いや、あったかもしれないが、現代人の僕らにはわかりにくいのではないか。
小説っていうのは、やっぱりそれなりにむつかしい文芸だな、と改めて思います。まあ、そんなことに茶々入れる読者が、そんなにいるもんでもないでしょうけどね。