カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ハードルをどんどん下げて行こう

2021-04-15 | 掲示板

 クラシックのギタリストに村治佳織さんという人がいて、この人は若い頃から頭角を現してすでにキャリアが長いのだが、それに大変美しい人でもあって、おそらくものすごく人気がある。英才教育なのかどうかわからないが、お父さんも音楽家のようで、自然と幼い頃からギターを弾いていたそうだ。
 音楽家の多くは、ギタリストでなくても、とにかく練習を積む。何しろ楽器の演奏というのは、突き詰めると大変難しい。難しいことができなければプロとも言えないだろうし、非常にハードルが高いことを成し遂げるためには、それはもう日々練習するよりない。才能のある人がよりたくさん練習するので、その高い領域というのは、見上げても届かないようなレベルである。ということで村治佳織さんは、美しいだけでなく凄くテクニックがある。
 この人が楽器の練習をどれくらいするのかと聞かれて、始めた頃は30分とかそんな感じだったけども、だんだん増えていって4時間ぐらい毎日するようになったという。今はあえて休みの日を設けたりするらしいが、そんなこと言ったってやっぱり練習するんだろう。音楽で 生きていくのは、改めて大変なんだろうなと思った。
  その言葉を聞いて、毎日4時間というのはさすがに凄すぎるので簡単に真似はできないが、最初は30分ぐらいというのが気に入った。始めないことにはどうにもならない。さらに僕の場合は、毎日というのも気が重たい。一週間のうち1/3くらい。ちょっと割り切れないけど、3日もできれば成功のうち、というふうに考えてもいいのかもしれない。 そういうことで何か新しいことを始められないかなあと、思ったわけだ。楽器を弾くということだけじゃなくて、例えば英語の勉強するとか。まあそんなようなことです。どれぐらいの期間継続するのかというのはさらに問題だけども、始めることが肝心。要するに何も始めないことが多すぎるので、そういう風に考えると何かやりそうな気がする。
 でもまあこういう方法ばかり考えるよりも、やりたいことがあればいつの間にかやっている。何事もそういう人が強いのである。途中でやめたとしても、また始められればいい。さて何を始めるかって? それは内緒です。
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偉くなったから疎ましくなったのだろうか   愛の勝利を ムッソリーニを愛した女

2021-04-14 | 映画

愛の勝利を ムッソリーニを愛した女/マルコ・ベロッキオ監督

 イーダは、若き活動家だった頃のムッソリーニと知り合う。まだ党内権力も何もない情熱だけの男にすっかり心酔し、資産も何もかもなげうって支えようとする。ところがムッソリーニは他にも女がいる様子で、のちに家庭もあるのだった。イーダ本人は認知してもらったと言い張るものの、事実上私生児として息子をもうける。そうしてムッソリーニの最初の妻は自分だと言い張る。ムッソリーニはそのようなイーダにうんざりしている様子で、さらに権力の階段をどんどん上っている時期で、彼女と親子を疎ましく思ったのか遠ざけてしまう。それでその権力の周辺が動いたのかどうかはよくわからないが、奇矯な主張ばかりを繰り返すように周りからは見えてしまうイーダは、ついには精神病院に入れられてしまうのだった。
 イーダの存在は、この映画で改めて有名になったとググったら書いてあるが、なぞは多いものの確かに最初の妻だったようである。当時のイタリアの情勢はとても現代の感覚で推し量ることができないが、すでに絶大な権力を握っているムッソリーニには、国民にも知られる家族がちゃんといるわけで(愛人もいたようだが)、イーダの主張がとても受け入れられるものではなかっただろう。映画の中でも同情的な精神科医が、いったんそういうことは偽って、真実でないことを受け入れた生活をしたらどうかという話もするが、情熱的に過ぎるイーダには、とても受け入れることができないのである。
 伝記映画のはずなんだが、物語が正確な歴史的な人物の伝記か何かの記述をもとにしているのかどうかさえ怪しく、いわゆる芸術的で説明が足りない。肝心なところでよくわからないことが多く、監督の力量に問題があるのだろう。そんな感じのものを撮りたくなかったのかもしれないが。
 しかしながら実際のムッソリーニの映像も流れるし、息子も一緒に狂気に陥るさまというのは、それなりに迫力がある。悲しい狂気の物語なのである。それにやっぱりイーダという女性は、男からすると大変にめんどくさいが、かわいそうなのだった。
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ポルトガル語を勉強したくなる音楽

2021-04-13 | 音楽

 少し前の村上レディオで、ボサノバのコンサートやってた。演奏は、なかなか素晴らしかった。いわゆるボサノバはブラジルのもので、 ポルトガル語で歌われるのが本場である。特にアントニオ・カルロス・ジョビンという人が有名で、というかこの人が創始者なのかな。本当はよく知らないけど、多分そんなようなことで、歴史的に尊敬されているんじゃないだろうか。村上さんもカルロス・ロビンさんの言葉を紹介したりして(それは以前のこの番組のものではあったが。だから実際はそんな風に村上さんが紹介したことを、司会の坂本美雨さんが紹介した)、それなりに敬意を表しているようにも思えた。 後でピアニストの山下洋輔さんが、カルロス・ロビンさんのエピソードも紹介していたけど(曲づくりにジャズの影響があるのではないか(要するに西洋文化)と言われても、そんなものは知らなかったと言い張っていたらしい。自分の音楽はブラジルが生んだものだ。と、かたくなに主張したかったのかもしれない)、それもなんだかすごかった。色々事情はあるんだろうけど、それなりに我の強い人だったんじゃないだろうか。
 そうそう、ポルトガル語の事を言いたかったんだった。村上さんはボサノバはやっぱりポルトガル語じゃないと格好つかないと言うか、さまにならないと言うか、そんなことを言ってて、スペイン語じゃちょっとどうか、ということも言っていた。ボサノバが好きになると、ポルトガル語を勉強するようなことになると、そういう人を知っていると話していた。
 ポルトガル語を聞く機会なんてあまりないけども、考えてみるとサッカーなんかで、ジーコとか アルシンドが話していた言葉が、ポルトガル語だったんだなぁと思う。何か抑揚が波のようにいつまでも続いて切れ目が少ない、ちょっと楽しそうな言葉である。南米で人口の多いブラジルでポルトガル語が使われているので、それなりに存在感があるけども、南米はブラジル以外はほとんどはスペイン語だから、なんだかちょっと変わっている。さらにポルトガル語と言ったって、そういう事情でポルトガル人よりも、そうじゃない国の人の方がポルトガル語を使う人が多い。英語やスペイン語やフランス語なんかもそういうことが言えるわけで、列強が侵略した世界地図が、現在も色濃く残されているということなんだろう。
 ということでポルトガル語で歌われるボサノバは大変美しく、それでいてなんだか少し楽しい。ラジオで聞いた演奏は、本当に素晴らしかった。でもまあボサノバに限らずジャズ系というのは、なんだか終わりがよくわからない。もうすぐ終わるなというのは分かるけども、最後の方でまた演奏をゴニョゴニョ続ける人がいて、なんと言うか本当にちゃんと打ち合わせしてるのかな~と心配になってくる。なんか全然知らないので、うっかりコンサートなんかに行くと、よくわからないために焦って早めに拍手をしてしまいそうである。そう考えると恐ろしいので、生の演奏は聴きに行けそうにないのである。
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たまらない緊張感の連続   工作 黒金星(ブラックビーナス)と呼ばれた男

2021-04-12 | 映画

工作 黒金星(ブラックビーナス)と呼ばれた男/ユン・ジョンビン監督

 時期は90年代。北朝鮮の核開発の内情を探るために、韓国の工作員が北朝鮮の幹部に取り入って情報を引き出そうとする作戦が始まる。元軍人のパクは黒金星というコードネームで、韓国の実業家を装った人物として北の資金源を調達する幹部に取り入ろうとしていく。北朝鮮のガードは固く、スパイに対する警戒も強い。様々な障壁を乗り越えるために、文字通り命を懸けて、相手の懐に入り込んでいくのだったが……。
 会話を含め様々な駆け引きの応酬があるが、一つ間違うと大切な話がつぶれるだけではなく、おそらく命も一気に危険にさらされる。韓国の軍隊時代にもすでに伏線が張られていて、仲間であっても過去と現在の断絶の工作はねられている。そうやって慎重に計画は進行していき、やっとの思いで幹部と知り合いになっていく。知り合いになっても命がけは続いて、かなり信頼関係は築かれていくかにみえるが、罠らしいことも幾重にも仕掛けられているのだった。
 終始緊張感のある展開で、しかし確かに南北でそんなようなこともあったかな、という史実とも照らし合わせて楽しむこともできる。僕が働きだした若い頃に、そういう流れがあって不思議に思っていたが、裏ではこのような取引がなされていたということだ。映画なので脚色はあるのだろうが、大筋でそんな感じのやり取りがあってもおかしくない。そうして物語は、さらに意外な展開になっていく。
 スパイ工作物は、裏切りがばれたりするとものすごく怖いことになって、残酷なシーンばかり続く映画をたくさん見たせいで、もうなんだかずっと怖い思いをしながら見続けていたわけだが、最後になって、思わずジーンとして泣けてしまった。まさか泣ける映画だとはみじんも考えてなかったので、まったくしてやられた感じだ。その夜は妻もすでに寝てしまっており、シーンとする居間において、一人すすり泣いた。考えてみると国家をやり取りしてひどいことをしてきた連中のようにも思えなくもないが、実に素晴らしい。これこそが真の友情ではないか。
 難しい問題だとは正直に思うけど、やっぱり北と南は、いつかは一緒にならなければならないのではないでしょうか。もともと一つの国なんだからね。でもまあ、僕が生きているうちに実現できるんだろうか……。
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耳栓をしてもらいたい

2021-04-11 | 雑記

 いびきの話はふたたび続いている。困っているのは 厳密には妻の方で私ではないのだが、妻を困らせてるという意味では非常に私が困る。そうあって欲しくない。しかしそうあっていることが事実だ。
 僕がいびきをかかなければ済むことではあるんだが、なにしろそれは無意識下であって、僕の力ではどうしようもない。ダイエットは継続中だが、そんなに簡単に痩せられるものではない。もちろん諦めてはいないが、楽観ができない。そもそもいつまで待ってもらっても、瘦せたから劇的にいびきをかかなくなったのかどうか、そういう証明が明確なのかも不明だ。ということで、今はいびきがうるさいらしいのだから、いびき問題は、今現在の実にタイムリー問題なのだ。
 横向きに寝るといびきをかかないと言う。口で呼吸するときに舌などがたるむなどして気道をふさぎ、音が出ることが多いからだといわれている。だから、そもそも鼻で呼吸するのもいいという。口と鼻と気道がつながる下の方は、ふさがりにくいということなんだろうか。ならばということで、これらは気分的には試している。
 だから、 寝始めの時は横を向いている。しかし、目が覚めると仰向けになっている。人間は、寝返りを打つという。そのままの姿勢で寝続けられるという人は、あんがい少ないのかもしれない。 実を言うと寝始めで横を向いていると言いながら、意識があるうちにもポジションを変えている気もする。そのままに意識がなくなるまで続けられるなんて、とても信じられない。そもそも横向きでは、どうにも眠たくなりにくい。
 普段の呼吸から、主に鼻でしているという風には考えていた。もちろん口でもするが、しゃべらない限り口は閉じている。だから当然寝る時は鼻でしているはずだ。はずなのである。でもそれははずであって、おそらく事実ではない。だから僕はいびきをかくのだろう。
 そういうふうにどうしようもないので、実は耳栓を買った。前にも耳栓は買ったことがあって、二セットばかりは持っていた。一つは僕が使っていたので遠慮して、買い置きしていた一つをつれあいにやった。出張中、相部屋になる時があって、僕は人のいびきでは寝られないので、買っておいたのである。でもどういうわけか、最近は使ってないようなのである(個室のビジネスホテルが圧倒的になったし、そもそも最近は出張がない)。でも、やったにもかかわらず、つれあいは使っている風ではない。人が使ったものを使うのは抵抗があるのかもしれないと思って、やっぱり新品を買ってきた。それをみてニヤニヤしているが、使ってくれるんだろうか。
 休肝日は寝付かれないので、だらだらと映画なんかを観ている。そうするとつれあいは先に寝ている。おお、ちゃんと耳栓してるではないか。かなり安心してその日は寝ることができた。
 翌朝効果の方を聞いてみた。でも考えてみると先に寝ていたので、僕がいびきをかいたかどうかまではわからないそうだ。確かにそうかもな。効果があるとかないとか、分からないままだけれども、使ってくれるのをよしとしよう。
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清潔感のない映画   続・夕陽のガンマン

2021-04-10 | 映画

続・夕陽のガンマン/セルジオ・レオーネ監督

 有名なマカロニ・ウエスタンの名作。3時間もある長い話だが、三人の悪人たちが、お金のために人を殺したり、人を出し抜いたり、喧嘩したり、拷問したりする。三人とも拳銃の腕もある上に一定の運のようなものを持っており、命がけのお金稼ぎにしのぎを削っているともいえる。最終的には結局仲が悪いのだが、だからお話は面白いのかもしれない。
 この映画は世界的にカルト的に愛されている映画のようで、近年「サッドヒル」という感動的なドキュメンタリー映画もヒットした。実は僕はそれを観て、再度気になっているところに、BSでの放送を録画しておいたというわけである。レンタル料、得しました。サッドヒルというのは、この映画で重要な場面になる墓場のある場所で、一時期は廃墟のようになっていたものを、ドキュメンタリーでは有志が集まって再現していた。改めて映画で見てみると、よくもまあああいう雰囲気のある場所を作ったものだと思う。昔の映画人は、モノづくりの天才たちである。
 しかしながらこの映画のお話の展開は、ほとんど昔の日本の漫画を再現したような感じもするのである。本当のところはまったく知らないのだが、この人たちは日本の漫画の翻訳物でも読んだのではないか。もともとイタリアには、このような悪人話があるんだろうか。イタリア人は確かに人を食ったような詐欺師のような人たちがたくさんいるような印象はあるけれど、いくら何でもこのように漫画的なのかどうかまでは知らない。日本の少年漫画では、この似たよう悪人はたくさん出てきて、人をだましたり陥れたりする。僕らはそれを少年時代に頻繁に読んで学習した。だからなんだかこの映画の悪人たちが、初めて見るのにもかかわらず非常に懐かしさを感じさせられる。ちゃんと悪い人たちなので、痛めつけられても当然のように思うし、しかし復讐もするので気分も晴れる。人は殺しはするけど、憎めない。そうして、ちょっとだけかっこよかったりもするのである。
 それにしても西部劇の人たちというのは(マカロニだけど)、荒くれ野郎ばっかりなので、なんだか汚らしい。砂まみれになって汚れている感じが、いつもする。女の人はあんまり出てこないし、清潔感のかけらもない。途中風呂に入ったりもしているが、あぶくだらけでよくわからない。その後ちゃんとタオルで体を拭いたのかも怪しい。僕は特に清潔感を大切にする人間ではないが、ああいう社会で暮らしたくない。つくづく現代の日本に生まれてよかったな、と思うのであった。
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水はガスをいれますか?

2021-04-09 | 

 海外のレストランだと、大抵食事の前に水をどうするか聞かれるらしい。日本においても多少敷居の高いようなレストランだと、大体ウェイターはそういうふうに聞いてくるという。なんだか最初から恐ろしげな話だけども、そういうルールなんだろう。日本の店だとお水とおしぼりは黙って持ってくるわけで、同じように当たり前にできないものなんだろうか。
 もっとも日本でも、例えば寿司屋なんかでは日本酒を飲むことが多いので、チェイサーと言うか何と言うか、水や白湯を最初から準備してくれる店などはある。今チェイサーといったが、追い水というのは確かにバーなんかでは普通のことなんで、食事の時にこれをやることを習慣化してくれると、ハードルが下がるというものだ。また、近年は「やわらぎ水(※1)」なんて言って水を飲むことに抵抗を感じなくなっている会もあったりするので、普及過程にいるといってもいいのかもしれない。でもまあ、正直に言って、まだ少し引っかかるところもあるのが実情だろう。
 ということで水の話なんだが、これが普通の水か炭酸水なのか選ぶのがあると言う。食事の内容によっては、どっちが合う合わないというのがあるのかもしれない。単に好みというのもあるだろう。なんだか面倒くさいなあと思うけど、そういうのはやっぱりと言うか、サービスのような感じがあるのかもしれない。また、ウェイターのいい方もちょっと特殊で、ガス入りかそうでないか、などと聞いてきたりする(日本語に翻訳する際、もう少し日本人の主張をすべきだったのではないか)。ほとんど直訳らしい雰囲気はあるが、炭酸水と何がどう違うのか、かえって気になる。同じような時と、そうでないのがどうもあるのかもしれない。 
 普通の水、いわゆる水道水を頼んでもいいという。何しろ水だって有料だ。でもそういう店でそういうものを頼むのは、かえって勇気がいるようにも思う。ところがニューヨークだと、水道水を頼むというのは、却ってかっこいいことらしい。それというのも、有料の水だと、いわゆる輸送などの関係まで考えると、あんまりエコとは言えない。要するに環境に関して意識が高いということを暗に示すことができる。それがかっこいいことだという都会人のエゴが丸見えだとは気づかないらしい。そういうことを気にしたり、意識したりすることを表現するのが西洋文化だというのは分かる。わかるが、だからやっぱり歴史的に先に人類を苦しめる元凶を作り上げた(※2)、という反省がみじんも感じられない。そういうことを他人事にできるから、ちょっと自分が違うなんてことを言えるのである。やっぱりそういうことがわかってしまう日本人の立場からすると、勘弁してほしいな、というのが正直なところなのではあるまいか。



※1 日本酒を飲むときに言われるようになったが、別の酒でもこれはいい習慣だと思う。ただし狭いテーブルだと、コップがごちゃついて困る。最近は密を避ける店が多いので、この機会に普及しないだろうか。

※2 温暖化問題を作ったのは、いわゆる先進諸国が先に炭酸ガスを大量に吐き出したからに他ならない。そうであるならば、大前提として、人口の多い途上国といわれる国々が発展していくことによって、これからはもっと深刻になると規制しようとするは、単なる既得権益によるエゴである。温暖化問題は、反省より前に、そのような思想から生まれたという事実がある。そうして排出量取引や炭素税などの話が出てきて逆襲を浴びているように見えるが、実際は植民地を持っている国々の有利な取引に過ぎない。科学的に見えるようで、きわめて政治的なジャーナリズムの茶番にみえるのは、そういう前提があるからである。
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みんな変でみんないい   狂気の愛

2021-04-08 | 映画

狂気の愛/アンジェイ・ズラウスキー監督

 冒頭から銀行強盗をやったりなんかして、とにかく無茶をする若者集団がいる。そうして妙な行動ばかり起こしているのだが、途中で娼婦に恋をして、さらに無茶をして、仲間割れというか、おそらくその恋の取り合いをして、疲弊して、さらに無茶を繰り返すというお話。ストーリーはあるけれど、あんまり関係ないのかもしれない。たぶん。
 いわゆるエキセントリックな演出として有名なようで、そうは聞いていたけど、こちらも無理をして観たという感じ。正直に言って、またしても時間を損した。何しろちっとも面白くない。
 若き日のソフィー・マルソーが惜しげもなくヌードを披露していて、おそらく、そういう関係で世間には興味を持たれた作品だろう。ドストエフスキーの白痴を原作にしているというのだが、そんな感じはみじんも感じられない解釈である。多分、どうでもいいのであろう。どっかから引っ張ってくるにせよ、それ以上に何か賢いことを考えつくようなこともないだろう。
 実際はエロ作品なんだろうけど、芸術的な演出ともいえるものは、あんまりエロでさえない。ポーズとしては大胆なんだが、奇矯なことばかりしているのでシラけるのである。やっている役者さんたちも大変だな、という感じがする。監督がわがままだと、それに付き合うよりほかにない(怒られるかもしれないし)。そういう仕事なんだろうし。それにしても製作者側も、こんな映画にお金を払わされて、さぞかし困惑したことだろう。失った金もあろうが、そんなことも早く忘れてしまいたくなる出来栄えである。
 それでもこんなのを借りてみるような奇矯な人もいるわけで(僕のことである)、なんだか世の中をどう恨んでいいのかわからなくなる作品といえるかもしれない。もう見た後は自己嫌悪の塊となってしまう。そういう訳で、皆さんはくれぐれも見ないようにしてください。
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漢字だけの人でない人 追悼:高島俊男

2021-04-07 | 感涙記

 高島俊男が亡くなった。84歳と高齢なので亡くなったこと自体は不思議ではない。晩年は目を患って口述筆記をしていらしたとは聞いている。以前ほどは本が売れなくなったというか読まれなくなってしまったようで、大手の雑誌などの連載はなくなってしまった。ネットで少し書かれていた時期もあったが、不定期でいつのまにか終わってしまったような感じだった。 
 僕は高島俊男が登場したのちの比較的早くからの読者だと思う。何らかの形で30年近く読んでいるのではないか。東大卒でもあるし博識で、当然大学の先生もしていたようだが、やめて文筆業一本になった。それは食えるからなったというよりも、何か他に事情があるのかもしれないと疑っている。ただその後はちゃんと売れたので、さすがと言えばさすがである。 
 そもそも高島俊男を知ったのは、新聞での書評だったと思う。記憶違いでなければ丸谷才一の代わりに書評を書くようになったのではなかったか。当時僕は、丸谷才一、大野晋、井上ひさし、の日本語の先生で人気を博したお三方のものをよく読んでいた。確か彼らは交代で週刊誌にも連載していた。 だいぶ勉強させてもらったな、という感じだったのだが、そこにまた高島俊男というスターが現れたのだ。さらに高島は、漢文はもちろん、中国語もできるらしく、日本語のみならず、漢字を含めた日本語のルーツや考え方についても、非常に詳しいのだった。さらに口(文章だが)も悪く、間違いを見つけると容赦なく人を斬りつける。若くてのぼせ上ったような人間には、そのような物書きというのは多いものだが、失礼ながら高島先生は、もうすでにそんなに若い様子ではない。ある程度落ち着いた文化人であっても、若いというかイキガッテいるというか、まあ、元気なのである。当然これが面白くないわけがない。僕はいつの間にか夢中で読むようになってしまった。
 そうしていろいろ勉強させてもらったり、笑わさせてもらったりしたのだが、僕が何より高島先生に感謝していることがある。それというのも本の読み方、という基本的なことである。高島先生はとにかく大量の本を読む方らしく、少なくとも午前中はずっと本を読んでおられる様子である。そんな人なのだが、面白くなかったり、間違ったことを書いてある本に当たってしまうと、背表紙に✖を書いて放り出してしまうというのだ。たくさんの本に埋もれて暮らしておられるので、そうしないとまた手に取ってしまうかもしれないからだろう(エッセイで読んだが、たぶんそういう意味もあるが、基本的には愉快だからだろう)。そうしてほかに書いておられるが、基本的に本というのは(自分が)面白く感じられるから読んでいるわけで、面白くなかったら無理に読むことはない、とバッサリおっしゃるのである。本人はずいぶんむつかしい本もすらすら読破するような人みたいだけど、要するにそういうさばさばしたところが基本にあるらしい。僕はまだ若いということもあって、背伸びして難しくて歯が立たない本も、我慢して何日も何日も苦行のように読んだりしていたわけだが、なんだか目の前がパッと明るく感じられるような気分になって、なんというか、解放されたような感じになった。もちろん、多少はチャレンジして難しい本を読むという意義も読書にはあると思うが、しかしそれだけに囚われすぎることなんかないのだ。僕らは自由な読書人なのだ。
 という基本姿勢が若いころにできたことは、本当に恵まれたことだった。自由に読むことというのは、案外気づきにくいことであって、読書人はこれに苦労している人が多いのではないかと推察する。最初から最後まで、丁寧に意味をちゃんと理解して読むことにとらわれすぎて、読書の面白さを見失ってしまうことも多いのではないか。もちろん、そういうモノを紐解くように、丹念に読むような読書というのは最大の楽しみである。そういう基本は持ちながら、それでもやっぱり自由に読んだって何の問題はないのだ。
 もう新しい高島俊男の描いた文章を読むことはかなわなくなった。本当に寂しいことである。また読み返して、腹を抱えて笑わせてもらうことにしよう。合掌。
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砂漠の放浪記   WALKABOUT美しき冒険旅行

2021-04-06 | 映画

WALKABOUT美しき冒険旅行/ニコラス・ローグ監督

 よくわからないが、広いオーストラリアにあって、父は砂漠のど真ん中で娘と息子を連れてピクニックのようなことをしようとしている。と、見せかけて息子に向かって銃を発砲。異変に気付いた娘がいち早く弟をかばって逃亡すると、父は車に火を放ち自決する。
 父は最初から死ぬ気だったらしいからいいが、生き残ったきょうだいは、砂漠のど真ん中で徒歩で放浪するよりない。二人共学校帰りの制服姿である。豪州にも制服ってあるんだな、とは思うが、おそらく私立の金持ち学校の子女であるという設定なんだろう。男の子は半ズボンで、女子高生はミニスカートである。この映画の目的がだんだんと分かってくるのは、要するにこのミニスカートの十代の女の子のエロ映画だったのである。二人は放浪しながら、とにかくこのスカートがめくれてひらひらする映像が続く。そうではあるが、しかしこの後アボリジニの少年と偶然砂漠で遭遇し、ともに放浪することで生き残ることができる。そうするうちに、アボリジニの少年から好感を持たれたようで、いわゆる求婚のダンスを受けて、事実上結婚を申し込まれる。そんなことされても訳も分からないから、なんとなく断ると、彼はあっさり自殺する。何か意味深だが、訳が分からないのだから、無意味である。
 何かの評判を聞いて観る気になったのだと思うが、時間の無駄だった。ニコラス・ローグは、一応名監督ということになっており、ほかの著名な監督たちに多大な影響を与えたと考えられている。そういう中でこの映画が評価されているとしたら、それらの監督たちは、単にエッチに目覚めただけのことなのではないかと疑いたくなる。まあ、ある程度は美しく撮られてはいるわけだが、撮影当時は16歳だった主演のジェニー・アガターは、その映像の露骨さに最初は驚いたとされる。さらにアメリカではそのヌードシーンはカットされた(倫理規定にふれるのだろう)。別段倫理問題などどうでもいいことだが、そもそもがこの映画がエロであることには、疑いはないことである。そうであるから、つまらないながらも商業作品になりえるということなんだろう。人間も所詮は動物なんだ、という真理には違いあるまいが……。
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1000円でしあわせになる方法

2021-04-05 | 

 1000円でしあわせになる方法というのはあるらしい。どういうことかと言うと、美味しいランチを食べれば、それだけでしあわせになれる、ということなのだった。なるほど、そうなのか。しかし1000円のランチってそもそも高いんじゃないか。まあしかし、しあわせを買う(買える)という意味の文脈で見ると、それなりに安く感じないわけではない。それにその論法で言えば、500円の弁当でもしあわせである。550円のラーメンでもしあわせである。480円のかき揚げうどんでもしあわせである。何も高級ホテルに泊まらなくても、海外旅行に行かなくても、しあわせになれる。そういうことができそうもない人生であっても、悲観することは何にもない。発想法としてはなかなかいい感じかもしれない。
 中井貴一のサラメシという番組があるんだが、これは好きでつい見てしまう。 単に昼飯を食うだけの番組なのに、なぜこれが面白いのか。仕事で辛い思いをしたとしても、休憩時間だけではないランチという食事をとることによって、人間というのはかなりしあわせになれる、ということが見て取れるからではないだろうか。もちろんな中井貴一のアナウンスが非常に面白い、というのがこの番組の大きな魅力であることは確かだが、そういう内容を引き立てる力と相まって、様々な人が様々なものを食べているだけで非常に面白い。もちろん美味しそうなものを食べてるのが一番いいのだけど、そこまで美味しそうになくても、食べてるだけで素晴らしい。人々はいろんな仕事をしていて、でも昼が来るとお腹がすいて食事する。当たり前のことなんだが、結構そのことに一所懸命になっている人々がたくさんいる。人間というのはつまるところ動物であって、食事をとるというのは生きていくためだけではなく、幸福そのものということなのであろう。
 1000円でしあわせという話に戻ると、そうしたしあわせそのものが、簡単にお金で買えることなのだ。それは厭らしいとか汚らしいという意味ではなくて、なおかつ単に安易ということではなくて、そんなに身近に、さらに毎日という単位で、しあわせが手に入るという意味なのだ。それは考えてみると本当に素晴らしいことで、忘れてはならないことではないだろうか。実際にそういうことを忘れている人は多いように思えて、それに気づいているか気づかないでいるかだけで、毎日の生活ということの充実が全然変わってくるんじゃないだろうか。
 でもそうなんだけど、僕はダイエットのために平日のほとんど、昼食を抜いております(数か月の辛抱だ。たぶん)。しあわせはほかに探すよりないです。
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恋も学習する   昔の恋人

2021-04-04 | 読書

昔の恋人/藤堂志津子著(集英社文庫)

 4篇の作品が収められた中・短編集。おおかた昔と今の恋愛が絡んだ内容になっている。若いころに落ちた恋愛の相手が、中年になった現在ふっと生活の中でまた呼び起こされるような出来事が起きる。忘れていたはずの感情が、大人になった女の心に再びよみがえる。しかしすでに若くはなく、冷静に自分の過去と現在を考えることのできる大人になっている。そうではあるが、恋愛で燃え上がっていた頃の感情は、再び激しく揺さぶられるのである。それだけ恋愛感情というのは不条理でもあり、生きている生身の人間にとって抗しがたい力を持っている。しかし、相手の言葉のちょっとしたニュアンスから、相手の考えていることも、わかるようになっている。もう、過去のように振り回されることのない自分がいる。求めに応じて相手に与えるだけのセックスでなく、自分の踏ん切りとしてのセックスができるようになっている。仕返しではなく、自分のために情愛を考えられる大人の女の感情の機微を見事に描き出した作品集である。
 特にミステリ作品のようにトリッキーな仕掛けがあるようなお話ではないはずなのだが、簡単にはその展開が読めず、ある意味で主人公らの行動に驚かされることになる。男たちは何らかの形で自分を思うように扱おうとするが、それらに合わせているように見えて、自分の性的な魅力も使いながら、実際は相手をコントロール下に置いている女の心理を、見事に描き出している。正直に言って僕は男だから、読んでいてかなり驚いてしまった。体の関係や感情にいやがおうになく押し流されていきそうになる素直な自分を持ちながら、しかし相手が何を言い何をしているかの分析は怠らない。結果的には、詰め将棋のように理詰めで、恋愛感情を制していく。結果的には、これしかない結果を見事に導いていく。なるほど、一度しかない人生の恋愛劇というのは、このようなものだったのかと、改めて悟らされることになる。誰でも恋愛はするのだろうけれど、女性というのは求められる性を持ちながら、このような感情の機微を用いていたのだと知らされることになる。これはとても敵わないものだな、と改めて悟らされることになりました。
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みんな噓を求めている

2021-04-03 | つぶやき

 今年もエイプリルフールはあった。そういえばそうだよなと言いながら、僕は毎年結構騙される。僕の父は生前「家が火事だよ」と言われて、慌てて家に帰ってしまったことがあるらしい。(当時は携帯電話もない) その後騙されたことが分かって、この冗談を言った人間を殴ってしまったという(まあ、これは仕方ないことだ)。要するに冗談が通じない家系である。いや普段は通じるが(と思うが)、嘘をいっていい日という設定に、嘘を言われることが通じない、のだと思う。まあ僕は、騙されたからといってそう簡単に人を殴らないと思うが。
 ということで、今年もいろんなことがあった。一番多いのは、転勤したというようなことか。辞令があって新天地に行く。お世話になりました、ということだ。それはそれはそれでどこはどうだろうな、という話になって、沖縄だとか東京だとか、その地域の話をひとしきりする。相手はそのうちに気付くだろうと思っているようだが、僕は気づくはずがない。いやだからエイプリルフールですよ、と言われるまでほぼ意味がわかっていない。 
 つれあいからは、たたみかけられるように騙された。ちょっと一番深刻そうだったのは、車を少し塀にこすってしまったいうやつ。僕はいびきがひどいらしいので、彼女はよく眠れずにそういうミスをしてしまったんではないか、と考えた。悪かったなぁと深刻に謝ってしまった。もうすでに何度も騙されていた後だったので、「まだわからないのね」と呆れられた。騙されているのに懲りないのである。
 まあ僕の方も何か言ってやろうかなと思って、ある人に、もう(ウチの)事業所は閉鎖するんですよ、と話した。かなりびっくりされたようで、返答がない。慌てて冗談ですと言って、もう平謝りに謝ったのであった。 確かにこれはもう、センスがない話だった。
 少し前にはネットでも結構、エイプリルフールのウソのネタは出たものである。さすがに10年前の震災の後には少なかったという記憶はあるが、その後ぼちぼち復活していった。で昨年は急に減って、今年も少ない。他ならぬコロナ禍の影響だと思われる。実際今年はエイプリルフールは差し控える、というようなことを言う企業は結構ある(ネット関連は特に多い)。わざわざそういう事をことわる態度に、誠実さを表そうとしているのだろう。却ってあざとくしか感じられないが。 黙っていればいいだけのことで、馬鹿なんじゃないか。いや、一般人を馬鹿にしているだけのことか。
 しかしまあトランプさんの流れもあるかもしれないが、改めて世の中フェイクニュースも多いわけで、わざわざこの日に何か言うようなことも無いということようなことかもしれない。フェイクかフェイクでないかもよく分からない情報が氾濫していて、そしてそれを受けて、また何かを言う人も多くて、嘘を根拠に何か言っても、本人は本当の事を言ったつもりかもしれないが、そもそもそれは本当になることは不可能である。なかなか複雑なことになっていて、検証するのが非常に難しい。そもそもコロナ騒ぎ自体が、コロナというウイルスは本当かもしれないが、現象としてはほとんど本当のことなんて無い。あるのは恐怖に付随してついて回る嘘ばかりである。本当の事を言ってる人のことが、嘘っぽくなって誰も信じない 。馬鹿らしくて結局口を噤んでしまうだけだ。
 もう本当のことを言う価値なんて、そんなにないのかなと思う。そんなことを求めていないと言うか、分かりたくない人が多いのである。求めているのは自分が信じたいものだけ。そしてそういうものを言ってくれる人を求めている。まあ中にはそうでない人もいるかもしれないので、そういう人とだけ付き合えばいいだけのことかもしれない。今は分断の時代なのである。
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若い純愛の古典的な美しさ   サンザシの樹の下で

2021-04-02 | 映画

サンザシの樹の下で/チャン・イーモウ監督

 中国の下放の時代、女子高生が農村に研修のような、ホームステイのようなことでやって来る。その家に居た青年から好かれて、猛烈にアタックされる日々、徐々に恋に落ちていく。だが、女子高生の家庭は、いわゆるインテリ層で、当時の中国では迫害されていた階級だった。農村の家族や青年はとても温かい人々だが、だからといって共産党当局がこの若い二人を受け入れていくものとは考えない、疑い深い母の思惑もあった(そのように考えないと、いつ共産党が襲ってくるのか怖いのだろう)。
 若い二人は、それでも小さなデートのようなことを繰り返す。ついには一夜を共に明かすチャンスが巡ってくるのだったが……。
 まあ、いわゆる中国版の純愛物語なのだろう。非常に美しく、しかし残酷に映像が撮られており、いわゆる、観ている人の心は揺り動かされるわけだ。僕としては、いくら何でもそれは無いだろう! と思ってしまうタチだが、普通考えてみると、それくらい心がねじ曲がっているので仕方がないことかもしれない。だが、この映画の展開は、相手の本当の幸福を思っている、ということを言いたいのかもしれないが、そんなきれいごとを考えるのは、実は自分の心から逃げているからだ。恋や愛というのは、相手を奪ってなんぼである。それができないようじゃ、生物としておしまいである。要するに彼らは、人間として生きていないのではないか。恋愛というのは、相手のことを思いやるような余裕があっては、成就するような甘いものではない(あくまで個人の見解です)。
 という物語であるが、しかし多くの人は僕のような感想は持たないだろうから、ご心配なく。安心して名画をお楽しみください。
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殺された人が消えるとはどういうことか   消失!

2021-04-01 | 読書

消失!/中西智明著(講談社ノベルス)

 もともと古本であるが、ずいぶん前から買っていたと思われる。で、読まずに本棚にあったのだが、先に読んだ本で紹介されていて、改めて読んでみることにした。
 大きな話としては、いわゆる殺人事件がおこり、大変な展開になる。こんな話どういう具合の収縮を経ることになるんだろうと、それなりに期待して読むことになる。前評判もあるから、たぶん、そんな風にして読む読者も多いのではないかと推察する。という事で言うならば、今の段階でいえることは、そんなことで興味を抱かず読まないほうがいい、という忠告はできるのかな、という思いはする。そうしないでうっかり読んでしまうと、おそらくがっかりするはずだからだ。僕はそう思うのだが、ただし、どういうわけか、ミステリ・ファンの間では、必ずしもこの作品の評価は低くはない。いったいどういう事なのだろうか?
 というのは、ミステリというのは、そういう分野なのかな、という思いはするのである。僕はびっくりするくらい、今作品は愚策だと思うけど(たぶん、この作家さんもそう思って他の作品を書かないのでは無ないか、と勝手に思うが)、あんがいミステリ・ファンにとっては、そうではないのではないか。そういうのは極めて不思議な感じではあるのだが、まあ、ダメなものはだめだろう。ミステリ・ファンというのは、どうも何か価値観の違う人たちなのではあるまいか。
 というような作品に何を言うでもないが、そのギャップのために読んだという事は、言えるかもしれない。いくら無駄な時間を過ごしたらかとしても……。単にそういう自分が悔しいのだろうか。
 ということで、それなりにひどい話だと僕は思うにしても、日本人の一部にとっては、(たぶん)名作という事である。そういう人たちがミステリ作品の選考をする限り、日本の社会は暗いかもしれない、とは思う。何しろ面白い作品はほかに埋もれている。そういう思いの方が、残念なのである。
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