くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

川岸のバー

2019年03月15日 | Weblog

■日中はホステル中庭の窓際のデスクを僕の専用と決めてインタビュー想定問題に取り組む。

昼食はごく普通の食堂でごく普通のメニューを選ぶ。名前は分からないが焼きそば風。ラオの普通の料理は写真で見ると、どれもこれもみんな同じように見える。でも、ベースの味がおいしくてこれが日本人に合うのだと思う。

夕方食事に出て前回見つけた日本人経営のバーへ行ってみることにした。3か月前にもかかわらず感覚が戻らず気が付くと、道の反対側を探していた。やっとみつけた。お客はそこそこ入っていて、マスターの奥さんとおぼしき女性がカウンターから出てきて注文を取ってくれた。ビールと焼き餃子で久しぶりの日本食。マスターは対応で忙しく挨拶する暇もない。どうやら覚えてくれてはいなかったようだ。ま、でもつぶれてなくてよかった。ここで商売するにしても結構むずかしいのかもしれない。お得意はいろいろできているようだが少ない日本人を集めるというところまでは行ってないかもしれない。

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バックパッカーガーデンの泊り客

2019年03月14日 | Weblog

■ベトナム語のインタビューの想定問題を作ってホステルのウエンちゃんに手伝ってもらおうとするが忙しくてうまくいかない。そのうち76歳というオランダ人の夫婦と話し込む。昨日会ったプエルトリコのカップルも来ていた。昨晩同室の頭髪もじゃもじゃのインド人みたいなイスラエル人はチェックアウトして行った。

オランダ人の彼は若い時は4年かけて世界一周したりしたそうで今は2人でリタイヤ―の旅を楽しんでいる。僕の話にもよく乗ってくれて是非日本にも行きたいし、アムステルダムの彼の家にも泊ってくれと言って住所をくれた。ベトナムにも行ったがホイアンは行けなかったそうで僕が朱印船やオランダ館の話をすると興味をもってくれた。伊万里のセラミックはオランダにも行っているというと展覧会で見たと言ってくれた。いろんな旅の話をした。

昼食は近くのカフェ風食堂にはいる。店内に数人が座れる小さい伝統屋根付き桟敷がテーブルの他に2,3室あってカップルが食事している。かっこいい―、、と思った。サンドイッチ39Kキップにオレンジ20kk。

ホステル横のテーブルは下に蚊がいるので早速イオンモールで買った蚊取り線香を使った。早速役に立った。夜はちかくのインド料理店でカレー。今日はこの4人ベット部屋にイスラエル人にかわり1人入って来ていた。

 

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ビエンチャン到着

2019年03月13日 | Weblog

■早朝カウチェオの国境でベトナム側出国手続きを待つ間、売店でインターネットSIMを買う(56㏍700円)出国手続き中、プエルトリコから来たカップルとちょっとスペイン語で話す。金髪パーマの日本人がいた。手続きを終え数百m国境を歩いてラオス事務所に行き入国手続きを終えるとまた金髪パーマ君と会う。彼が曹洞宗の僧侶と聞いてびっくり、ベトナム、ラオ、タイ、カンボジア、ミャンマーの旅を終えて永平寺に入るそうだ。

彼とはその後の食事休憩の時にもあって話した、ホイアンがいいと言ったので日本人町、鎖国と出島のオランダ商館と東インド会社、英国東インド会社と維新のことや竜馬が武器商人の仲介者だったという話をしたら目を丸くしていた。東南アジアの仏教や絹の道のことなど話したいことは山ほどあったけれど時間がなくてわかれた。

ビエンチャンのターミナルには3時ごろついて時間があるのでATMで1000㏍(1万3千円)ひきだしてバスを待とうとしたら、バスにいたベトナム女性に誘われてトクトク(3輪バイクタクシーのこと。ラオにセーオム「バイクタクシー」はない、きっと2人乗りは禁止なのだろうと思う)で行くことになった、車中で彼女は電話番号をくれて、盛んにSNSでつなごうとするがだめ。ベトナム語会話のいいチャンスと思ったが結局彼女のナンパには答えられなくて、、残念!

夜、食事と夜市を見てメコン川辺の食堂街などをぶらつく。夜のレストラン客はヨーロッパ系外国人ばかり、でもここはラオの若者や家族連れがいっぱいで楽しい雰囲気に満ちている。本当にここに来ると落ち着く。旅先の緊張感みたいなものがとれて別荘にいる感じ。

シャワーがこわれていた。

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面接対策2

2019年03月11日 | Weblog

■昨日に引き続いてフォンちゃんと近くのサークルKの2階で会って教えてもらう。彼女は今日は休みだというので助かった。昨晩用意した質問文を見てもらう。グーグルで翻訳した文だが、時折間違いを指摘される。状況に合わないものがあるようだ。これは僕がまったく気が付かないという点で危険だ。こういうリスクがあるということを知るだけでも彼女に見てもらうことには意義がある。

いざ、質問されると口に出てこない。答えは後に考えようと思っていたこともあって、全然話が続かないので彼女もじれったがっているのがわかるから、申し訳ないと思いつつ、、ああ若い時と違う、、。

まず、予想される質問には一言で答える回答を作ろう。さもないと、話が止まってしまう。単語が出てこない。日本語での対応は言ってみればコンサルタントとして僕はプロだからいろんなテクニックが可能だが、この面接はそうはいかないことが身に染みてわかる。わかったところはできるだけ準備した表現で時間をつぶし、あとの質問は一言ですます。質問の意味把握に全力投球、、でいくしかない。

彼女とわかれ早めにルネスへ行く。1時間だけヨガをしてヌックガムバス駅に行って明日のビエンチャン行きの切符を買う。ビザ更新がある。ヨガの行き帰りはバス路線探索と決めていろんなルートを試しているが今日は考え事をしているせいか最悪だ。3B番だと思って乗ったら途中で方向が逆??気が付くと38番バスに乗ってしまっていた。

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面接対策

2019年03月10日 | Weblog

■昼にフォンちゃんと食事して面接の対策を練る。といってもこれと言った準備がないので、質問を、確認するときはどういう表現があるか、などについていくつか教えてもらう。彼女と話すときはどうしても日本語になってしまう。インドシナプラザの37ストリートレストランで食事をしたのだが、いつまでたっても持ってこない。忘れたんだと言う。ここではよくある事。気にしないで話しを続ける。話ができて都合がいい。

いざ話せと言っても、すぐになにか口に出てくるわけではないからなかなか難しい。中途半端だがちゃんと準備しないといけない。別れてからルネスに行ってヨガをする。今日はベトナムニュースは聞かなかった。夜、質問のサンプルを考えた。答えより質問を理解する方が重要だからだ。

 

 

 

 

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教師会

2019年03月09日 | Weblog

■今日の教師会はフォンドン大学で日越大学の松浪先生の模擬授業。早く行って座っていたら授業の生徒役にされてしまった。練習Cの導入練習だが、状況把握のうえ目的をはっきりさせて例文にこだわらない姿勢には納得できた。筋道をいろいろ説明するあいだ、生徒が集中して先生の日本語を聞くという時間が生まれる。とにかく聞くということが重要だと思うからだ。

懇親会にでるとベトナムの嫁を貰ったという人にあったので話した。教え子の姉さんとかで日本語はまるでだめ。日常会話で意味がわかるようになるまでどれくらいかかったかを聞くと約半年かかったそうだ。ぼくは1年半以上たつが全然、、、。

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願書提出・ホイアンの歴史

2019年03月08日 | Weblog

■日越大学願書を提出すると、28日はベトナム語でインタビュですよとくぎを刺された。日曜以外学校で誰と話してもいいから毎日来てくださいと言われた。今回は韓国人中国人各一人のエントリーがあるという。図書館は半年前の受験の時も毎日通ってベトナムに関する本を読み漁ったものだ。今日もすぐに目に入ったのが「朱印船貿易絵図の研究」。読みだしたら止まらない、、。5時に読み切って帰宅。もうベトナム語どころじゃなくなってしまい、遅くまでベトナム史の勉強になってしまった。

ホイアンは中国明が解禁令を緩和した16末に、日中の直接貿易ができないために中間貿易港として発達した港だ。だからホイアンの日本人町や有名だが同時に隣の通りは中華街で日中の多国籍治外法権地域みたいなのが認められていたんだ。5度に及ぶ江戸幕府の鎖国令によって鎖国が完成したのが1635年(寛永12年)。それまで350隻ほどの朱印船が出たがその1/3は長崎・ホイアン間のものだ。主な品目は中国産絹(日本産は品質が悪かったらしい)を入れて銅や寛永通宝など銅銭で支払う。日本の銅は銀を含んでいたが日本には製錬技術がない。ヨーロッパの通貨経済は銀を求めていた。南蛮貿易(ポルトガルとスペインが相手国のこと)のスペインはメキシコ産の銀貨ペソが今でいえば米ドルのようなもの。中国も銀は欲しい、北部ベトナムと戦禍の絶えない中部ベトナムでは銅貨を鋳なおして武器を作った。石見銀山などに灰吹き法という製錬技術が伝わる前の話だろう。日本の金銀はいわば当時の世界通貨経済の石油だったんだろう。「銀座」があるくらいだから。

当時ポルトガルは台頭するスペインと張り合っていた。世界を喜望峰から東半分をポルトガルが西半分をスペインが仕切ることにしたが(だからブラジルだけが中南米でポルトガル語。北米もスペインのもの)スペインはフィリピンまでガレオン船で太平洋を渡ってくる。そのなかに割り込んでくるのがオランダ。1602年に作ったの東インド会社(なんとこれが世界初の株式会社)これは国の特許を得た交渉権、交戦権を持ち軍隊を組織し植民地経営をする会社。幕府に入り込み鎖国させ、自分だけ出島のオランダ商館(東インド会社支店のこと。「カンパニア」と呼ばれる)で対ヨーロッパ貿易を独占することに成功する。

もちろんキリスト教を排斥するのが幕府の目的だが、スペインのザビエルにしろ布教のエネルギーが貿易に結び付く力は強い。南国大名が競ってキリシタンになったのは某大名のように貿易で私腹をこやして幕府ににらまれるほど利益があったに違いないと思う。しかしザビエルはカトリック。プロテスタントやユダヤ教のように利息はとれないはず、、と、ここで登場するのが海上保険。海難事故の借主有限責任という考えは株式有限責任の原型。事故の責任がまぬがれるならいくらでも博打がうてる。株式配当は社債利子とはちがう、、というわけか。東インド会社には異端尋問からのがれたユダヤ人もかかわってくる。会社は1799年解散しイギリス東インド会社に接収され(東インド会社もいろいろあるんだ)オランダもイギリスとの戦争でNYの毛皮(NYの発見者はオランダ)とインドネシアの香辛料を交換したり(種をイギリスに盗まれモーリシャスで栽培されて値下がりしうまみなし)してナポレオン戦争後インドネシアに専念し、イギリスも東南アジアから撤退しインド経営に乗り出す。

アヘン戦争で清をつぶしたイギリスと通じて日本の明治維新を走り抜けた坂本龍馬が亀山社中(株式会社)を作り海援隊を作って薩摩長州にジャーディン・マセソン社(東インド会社関連で現存する・長崎支店がグラバー亭)から武器を買わせて現物出資し、福井の松平春嶽から金銭出資をうけて倒幕を画策した、、というより国際的武器商人とつるんで内戦を企画したのか回避しようとしたのか、とにかく無血開城を成功させた、、戊辰戦争起きちゃったけど、、ましかし明治維新は「謎」。でも、なぜ坂本龍馬が日本の株式会社の創始者なのかはこれで理解できる。日本を巻き込む欧米列強の植民地抗争は明治維新よりも前にあったのだ。

 

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kuretake HotelでAさんと会う

2019年03月06日 | Weblog

■ホテルはキムマーのバスターミナルの方向にあった。約束の時間に遅れそうでセーマイで行ったらお金をもってくるのを忘れてホテルでAさんに借りる始末。ホテルは日本人客ばかりのようで彼はとても気に入っていた。

彼は以前からベトナムのは実習生はもう終わりでインドネシアに軸足を移しているが、今は日本語学校の仕事だという。あなたは学者で金儲けに興味ない人だからほかの人と違うよと言ってあるんだけどぜひ会いたいと言っている人がいるから、もし興味あったら連絡してみてよ、とベトナムの日本語学校の名刺を見せてくれたのでもしかして参考になることがあるかもしれないと思って記録した。

今は彼は奥さんと2人だけの生活で実習生コンサルの仕事も収入は費用で消えてしまうと言っているがそれでもやっているのは海外を飛び回る若いころからの仕事が生き甲斐になっているからだろう。

彼は送り出しのタン君とは連絡していないというから彼には連絡しないことにした。タン君の友人と称する人が面会を求めてきたがすっぽかされたことがよほど気に障ったとみえ、説教して、そんなやつとは金輪際会わないと言って断ったそうだ。約束の重さのちがいはこれほど違う。知らないベトナム人には理解できないかもしれないし、そんなベトナム人を理解できない日本人は多いだろう。

ホテルから帰りのバス停をさがすと10分ばかり歩かないといけない。微妙な距離だ。

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虫歯治療終了

2019年03月04日 | Weblog

■午後さくらクリニックで虫歯の治療。よく歯が残ってますね、と言われるのだが虫歯が多い。ちゃんと磨いてますか?ときかれても生返事。染め出ししてもいいですか?というわけで歯磨きチェックすると歯が全部真っ赤。美人の歯科衛生士さんに磨き方を習う。あれ!歯って横にみがくんだっけ!縦に上下一緒にみがいてた。70年知らんかった。

これで治療終わって3日で3,4万円、抜歯、虫歯2本、クリーニングそれに健康診断入れるとまた5万円ほどになる。日系医療機関が現地で在越日本人にすがって生きていくのは大変だろうが保険がない僕にとってはきついものがある。

丁度55Bバスの通り道でもありイーオンに行ってヨガクラスに行く。

月曜は6時半から1クラスだから時間があったのでクラブの休憩室の机で勉強。NHKワールドジャパン放送の記事翻訳。その後のヨガクラスの先生はインド人の男でとてもプロフェッショナル。簡単な動きだけでもう大変。終了時にする発声が迫力。読経に酷似して来るのが面白い。

 

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A氏来越・空港探訪

2019年03月03日 | Weblog

■実習生コンサルタントのA氏が久しぶりに来越するので空港に迎えに行く。この際、空港までのバス路線を調べようと早めに出かけ空港をよく歩いてみた。

行きは109番(ミーディン間)これは便利だが空港内にとまらないようだ。7番17番は国内線乗り場。87番と90番が国際線乗り場から出ている。キムマー着の90番が便利で1番遅くまで使えることがわかった。しかも国際線ターミナルのすぐ横のわかりにくい場所から乗る。ターミナル間はシャトルがあり、国際線1階からは国際線の2階(出発階)。国際線1階(到着階)からは国内線2階(出発階)に回っていくが道路を横断する高架になっているので国際線、国内線のターミナルの位置関係がよくわからなくなる。出発階では繋がっているはずだが利用客しか通れないから外来者にはわからない。

国際線の到着ゲートはA1とA2があって出口の柱にお互い反対ゲートの出口を映すモニターがあるのでA1で到着を待っていてもA2で出てくる人を見逃がさないようにできている。

A氏到着は8時40分だったがゲートから出てきたのは1時間後。すぐに90番でクレタケ132ホテルに近いバス停まで、、、と思っていて1駅乗り過ごした、、まあいいよ、少し歩くくらいは、、ところが迷ってしまった。オンラインマップと道を聞いた人の話が逆方向??歩き疲れ、タクシーでやっとホテルにたどり着き、僕はそのままタクシーで帰宅。もう12時に近く、車でタオに電話していてやっとシャッター開けてもらう。タクシー150K。

ウエブでチェックするとオンラインのマップの住所が違った位置を示している、よくありそうなことだが、、事前チェックは必須だ。病気がちなA氏には気に毒なことをした。

 

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