何時かに、三田誠広著『いちご同盟』という話を紹介し、その著書の中にあった1文を紹介した。それもまた引用の1文であり、引用の引用というベタ塗りしたような感じだが、
「自己を表現する事は言い訳に過ぎない」
という物。今、手元にその本がないので、うろ覚えな点はご容赦頂きたい。
『急行特急TH発日曜深夜夜話』で主に、自分自身が感じ考えたた重苦しい話をしているが、それは「自己を表現する」という事になる様に今、不意に思う。それらが総て「言い訳」としてしか、とらえられないとしたら、哀しい話である。だがしかし、一方的感は拭えない上に、「ここは強調したい」という所では、「言い訳」はあったかも知れない。私はそうは思わないが、他人の目は解らない。
自分の正当性がどうしても、そんな自己を表現する中では出てしまう。こーで、あーだから…と言う話の切り口は常套手段。
時と場面の条件はあるにしても、自分は間違ってはいない、誰しもがそれは認めたい話だと思う。「自尊心が高いからではない」と私は思うがどうなんだろうか?
私の自己を表現するというのは、そんな「正当性」ばかりが表ざたになっている、私に自覚がなくてもそれがあるかも知れない事は、危惧する所である。
物事には様々な事情と理由が裏にあって、動いている。それらを考えれば、何としてでも「その事情と理由を通したい」という考えが働くのは当然の話とする事自体がすでに「言い訳」なんだろうか?
言い訳は誰しもが普通にするもので、何時でも悪になるわけでは無い筈が、悪になる場面ばかりに遭遇するのは私だけだろうか?
口の悪い言い方になるが、
「世渡り上手で要領良く生きる」
そして
「当たり障りなく‘‘適当/適切,,を選んで生きる」
という「力」があるならば、「総てが平和で極楽」であり、何も言わずともやれるだろうが、私はそのどちらにも当たれない生き方しか出来ない事がある上に、常に自分の味方になってくれる誰かが居ない以上、「言い訳」は必要になる。そうでなければ、「自分自身を守れず負け役になる」からだ。これも「自尊心が高いから」という理由で一蹴されるのも気に入らない。
しかし、その言い訳で、一体どれだけのしょい込まなくていい厄介事を背負っただろうか?
自己をこうした場で、悪い意味になりはしても表現していかなくてはやってはいけない現実もあって、言い訳しなければ自分が守れない事が自尊心の高さとして型付けられることが繰り返される中で、自信喪失を繰り返して、「誰かという他人」は「救われた」のだろうか?
自己を表現する事で想い感じた話を形にする事が「言い訳」だとは想いたくはない。だが今更の話、現実に3年前の2007年に昨年2009年にさえ、私の自己を表現する「想い」そして「事実」を話して、「言い訳だ」と一蹴された出来事は、恨みと共に忘れられはしない。
書けば書くほどに、思い出したくない忘れたい過去を思い出してしまうが、この想いを言い訳と一蹴されることを私は許したくも認めたくもない。