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トレイントーク1012-1 おはよう777H特急押上行き (1024編成)

2010年10月12日 07時34分06秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
涼風鈴子「では、電車です」

シーバス32世「777H特急押上行き、やります」

ポポロンハエンジェルリング「ヘタレソツネラちゃんどーぞ」

ヘタレソツネラ金矢ヲタ兼イ為放送作家急行特急TH「はい、‘‘おはよう777H特急押上行き,,のコーナーです。今朝は歌う1000形、1024編成で運転されています。それでは今日も今週もあなたに私に幸運があらん事を」
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Mind Feeling1012-1 Morning on Tuesday

2010年10月12日 05時57分37秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
涼風鈴子「はいいーはよーざいますぅー。涼風鈴子どっすー。“Morning on”どっすー」

シーバス32世「昨日はシカトされてしまいましたシーバス32世です」

ポポロンハエンジェルリング「同じくシカトされました、番組アシスタントどぇーす」

涼風「先週末あたりから昨日にかけてですか?何故に妙な時間に“Morning on”やるんだよ、状態でしたねぇ~。有り得ませんでしたが」

シー「でも、割合すんなりいったんじゃないんですか?まぁ録音放送的な感じになってはしまいますが」

ポ「そもそも、“Morning on”自体、明確に何時から何時と決まってない、イ為つもりなんたらですから、いーんじゃないですかぁー?」

涼風「急行特急THさんはあくまでも生ほーそーにこだわっている括弧らしいですが」

シー「あの所で、涼風鈴子さんと柿島孟子さんの違いを教えて下さい」

ポ「そーいう質問は楽屋でしてもらおうかっ?今はあくまで“Morning on”なんだがら゛ね゛ぇえぇえぇえぇ~」

涼風「そーですよ、あくまでも“Morning on”ですからその話はヌキにしてくださいね」

シー「訳がわかりませんねぇ(渦巻き)」

ポ「訳が解らない時は、歌って下さい」

シー「ハニトホヘトイロハニィ~」

涼風「何かイイタイミングで歌いましたね。んまー良いですわ。さて話のネタがつきましたので“Morning on”、9割終ります」
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Mind Feeling1011~1012-1' セルフトラックバックフェスティバル2010

2010年10月12日 00時59分03秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
恐ろしい勢いでトラックバックを、ひとり自作自演でつけまくったが、明らかに使い方は間違ってるんだろうなと言わざるえないだろう。そもそも私は使い方が解らない。「記事を引用する」為に使うみたいな話を聞いた事があるので、コメントのレスポンスで使っているのだが、昨日は本当に、いいや使ってしまえ!の勢いでやってみた。その結果は如何に?だが、所詮は自作自演。単なる自己満足で終わる。
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Mind Feeling1011~1012 河よりも長くゆるやかに

2010年10月12日 00時37分45秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
画像は、1995年にリリースされた篠原美也子『河よりもながくゆるやかに』というアルバム。リリースから丁度15年というキリの良い時間が過ぎた事になる。

このアルバムのタイトルになっている「河よりも長くゆるやかに」という言葉が、同アルバムに収録されている“Dear”という曲に

「流されるまま 流されるまま 足跡さえ残せなくても河よりも長くゆるやかな毎日を歩いて行く 今日もひとりずつの足で」

という形でそのままではないが入っている。
河よりも長くゆるやかに、それは一体何を意味をしているのか?河の流れの様な日々と親愛なるという言葉の作り手側のつながりと意図は未だもってして解らない。

だが、その河のゆるやかな流れの様な日々がどの様な物なのか、ちょっとそれを想像してみると、「停滞」と「衰退」を意味しているのではなかろうか?「衰退」が進み行くなんて矛盾するじゃないかと思うかも知れないが、よく考えれば、衰退にも「動きはある」という事になる。衰え退いて行く事、そこに「動」はある。

河は泉に始まり、幾つもの泉から始まった流れに合流して、勢いを増す「上流」があり、流れの勢いは上流程激しくは無いが、地形の高低さと他の小川を集めて川幅を拡げて行くうちに、いつしか流れが止まったかの様に見える「下流」を造り、大海原へとたどり着くストーリーがある。

「下流」に達し、大きく成長した事は悪い話でない。しかし、流れが緩やかであることは、停滞を必然的に呼び、それでも大海原へと引き付けられていくので完全に止まる事は無い。だが、それはあくまでも、自然界の話である。

まだまだ人生これからだろうと言うやさしい慰めと励まし言葉を無視して、自分が生きている人生を河になぞられば、何事もなく、いや、何の成果も出せず、どうして良いか解らない中、時間だけがただ過ぎて行き、何かうまくいかなくて、つまんなくて、楽しい事なくて、日々に生きているのではなく、生かされている事を続けると、停滞を呼び何時かは衰退さえ喚んでしまう。だから、何か考えなくてはならない、でも考えて見れば、今がそこまでダメという訳でもない一方で、ダメを良くするには、最も難しい「変われない自分の内面にメスを入れる」事になって、麻酔も輸血も無しにただメスだけ切り込んでも、変わらない代わりに、空回りという3文字しか残らない。

コレもアレも今までのままで、変わりはしない。変わった物はそう簡単には形にはらならない。だがそればかりが望まれれば、参ってしまう。とは言え、同じままでも停滞し何時かは衰退してしまう事は解ってはいる。でも何も出来なくて、時間に追われて、空回りの焦りが始まり、変化と同時に成果を次第に要求され始め、それでも望まれる状況にたどり着かない。
自他からの不変への呆然と諦めと苛立ちと欲求不満の4つがあいまじって、それでも良いも悪いも一緒くたに時間の流れと共に進み行く日々は、ゆるやかを通り越して、淀み停滞し衰退するだけである。
そんな時間と日々に親愛なるという感情は私の胸の中には、うまれない。
前向きであろうとすれば後ろ向きに足をとられ立ち止まり衰退していく時間の果てをみたいとは思わないが見なくてはならない時が来よう。
河よりも長くゆるやかに。淀み停滞した河みたいな日々の事の象徴とそれを結論づけて話を閉じよう。
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