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トレイントーク1024-1 こんばんは2177H 特急品川行(1701 編成)

2010年10月24日 22時13分24秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
ヘタレソツネラ金矢ヲタ兼イ為放送作家急行特急TH「では、‘‘こんばんは2177H特急品川行き,,のコーナーです。今夜は1500形1700番台のトップ1701編成で運転されています。車交がなければ、777H特急堀ノ内行きもこの編成で運転された筈です。では明日も今週もあなたに私に幸運があらんことを」
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Mind Feeling1024-1 思ったままに…

2010年10月24日 21時30分19秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
立ち寄った飲食店の有線は、リリースされてから少し時間の経った曲が流れていた。
知っている曲であれば、「ああ、あれか…」という感じで、ちょっと聴き入ってみたり、知らない曲であれば、聞き流してみたり。

そんな中でふと流れてきた曲があった。聴くのは初めてになるが、歌われた詞から、多分、あの曲だなと思った。その曲は、かつての親しかった人が好きなシンガーのものだろうなと推測出来た。
その親しかった人との付き合いは今や無い。共に過ごした時間を忘れてしまいたいと思っていた中で、流れて来た1曲に、う~むどう対応したら良いのだろう、と戸惑いを感じた。
良いも悪いも含めて、忘れてしまいたい共に過ごした時間。それは私が造った過去の傷痕となり、癒えはしても、きっかけさえあれば思い出してしまうものである。
そういえば、先々週になろうか?ある場所で、かつては親交があった人に出会った。向こうが気付いたか否かは解らない。
身から出た錆であり、自ら造った傷であるとは言え、まざまざと突き付けられる事と忘れた忘れたい過去が蘇る事が余計に嫌である。
2010年は閉鎖的な姿勢が始まり、マイミク切りを始め、連絡を途絶する事に走った。それは愚かしい事であるが、もはや基には戻れない。
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Mind Feeling1023~1024 この気持ちをここに表す

2010年10月24日 00時47分15秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
この気持ちを表すとすれば、閉塞感になるのだろうか?それともお馴染みの憂鬱になるのだろうか?或は、水気を吸って絡み付いた服が脱げなくてイライラする様な感じにもそれは似ている。つまりは「欲求不満」という事になるのだろうか?だがしかし私は今、何をしたいのだろう?これと言って具体的な物がなく、それがないから迷っているだけなんだろうか?いやしかしそれを見てしまったら、犯罪とは違う意味で取り返しのつかない過ちを犯したこれまでの人生を突き付けられて、どうしようもない後悔と絶望と恐怖に苛まれる事になるのが解っているから見たくない。
何かしたい。誰かに訊ねれば「果たさねばならぬ義務」を突き付けられる気がするので訊けるに訊けない。
答えを求めれば、それは、頷けて得心が行くものでない物が返ってくる。具体像がそこに無い上に、冷静になればそこまで強く「何かを求めている訳ではない」事に気付く自分が居る。

日々を生きている、というよりも「日々に生かされている」という「受動依存」な昨今で、気がつくと同じ事を繰り返すだけで手一杯だった時が続いたなと、書き記した記事を見てみるとそう思う。

絡み付いて脱げない服を脱ぎたい気持ち。絡み付いた服に締め付けられて苦しい気持ちは、まず間違いなく、閉塞感。脱げない事から来るストレスが憂鬱に成り代わる。それが今の気持ち。こうして言葉にして見ると案外解るものだなと思いつつも書き出す事は気恥ずかしいし、ましてや部屋で1人、紙1枚に書き出す事は虚しい。
だがしかし解った所で答えが出た訳ではなく、では何だったんだろうこの話?単なるループルーティンで終わっただけで前に進んだ訳ではない。

前向きか後向きか、という言葉で日々を表すのは何だか違う気がして。私は別に日々を前向きか、後向きかに行こうなんて考えてはいない上に考えた事もない。だから日々に生かされている、と言える。可も不可もない日々を送れる事は悪い事ではない。しかしそれを繰り返す事はきっと何時しか、水気を帯びた服を脱ごうとして脱げないという気持ちに苛まれる結果になり、ふりだしに戻る。

求めたい訳でも抜け出したい訳でもないのならこのままで良い筈。でもこのままでは何かつまらなくて、もどかしいだけで。

焦燥感を煽っているのは誰かではなく、私の中に居るもう一人の誰かなんだろうか?今のままではならない、ならない、と叫んで、大切な物さえぶっこわすはちゃめちゃなもう一人の私が私を煽り立てている。それが、閉塞と憂鬱を喚んでいるのだろうか?

文の最後が「クエッションマーク」ばかりなのは、私自身の話なのに、解らないから。それは、私の無責任感の表れであり、自信のなさ、つまり、ヘタレである事を示している。

見える事と見えない事と見るに見られない事の葛藤と恐怖と不安が混じった感情に焦燥感が混じり、「人生と日々への迷い」ばかりが生まれる。

それらは何を意味しているのかは解らないが、ひょっとしたら、自分の中の歴史という時代、つまり、人生が変わろうとしている、事を言おうとしているのだろうか?解らない。

このままか、改悪か、改善か、3つが今、目の前に広がり、それらが一気に同時に襲いかかって来ている。それらから必死になって逃げようとする私が居て、どうしようもない気持ちにかられてしまう。

どうしたら良いのだろう、この気持ち。どうしたら良いのだろう私自身。
訊きたくても訊きたくない。見たくても見たくない。追われる時間と日々と現実に呆然と立ちすくむのはほかならないアラサーのヘタレた私自身である。
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