手書きで表紙絵を画き、良い和紙を取り寄せ装丁にもこだわったりなど、久女の意気込みが伝わってくる、久女主宰の俳誌『花衣』創刊号に、高浜虚子から「春着」と題された近詠3句が寄せられました。久女はどんなにか嬉しかったでしょう。このことからみても、この頃までは師弟の間には何の問題もないようです。
この様な自身の俳誌『花衣』に、久女は後に代表作とされる句を次々に発表していきます。創刊号で発表された久女の句は
前書に、菊花を干して菊枕を作るとある
「愛蔵す 東籬の詩あり 菊枕」
「ちなみぬふ 陶淵明の 菊枕」
「白妙の 菊の枕を ぬひあげし」
「ぬひあげて 枕の菊の かほるなり」
の4句で、落ち着いた気品ある句姿です。
久女は『花衣』創刊の前年、昭和6年秋に師、虚子の長寿を祈るため菊枕を作り贈りました。
『久女文集』に載っている「菊枕」という久女のエッセーによると、菊枕とは白菊ばかり大菊、中小菊あわせて6、7千輪以上つみ、花びらだけを新聞紙の上に広げて、1ヶ月以上乾燥させ、白羽二重でつくった薄い四角の袋にその乾燥させた菊の花びらを入れ、枕の上に重ねて眠る、そういうものだったようです。
送られてきた菊枕に対して虚子からは礼状と共に
「初夢に まにあひにける 菊枕」
という句を頂いた、と久女はエッセーの中で綴っています。そんないきさつがあって出来たこの4句ですが、後に「菊枕」という言葉は、松本清張氏が久女をモデルに『菊枕』という小説を書き、彼女に痛恨のイメージを被せることになりました。
久女が師の虚子に菊枕を贈ったことにつき、男性である虚子はそんなものを貰ってもうっとうしくて、煩かったのではないか、という見方も久女関連書物には散見されます。しかしそれは後に久女と師である虚子の関係が悪くなったことから来る連想で、俳句を作るような人は菊枕の風流を楽しむのでは、と私は感じるのですが...。
何はともあれ、菊枕を作ったことにより、久女は代表作でもある菊枕の4句を得たわけで、それだけでも菊枕を作ったことは意味のある事だったと思います。
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