自身の主宰誌『花衣』1~4号に充実した評論を載せ、北九州各地を精力的に吟行し、「花衣句評」で丁寧な選を書き、読者や会員も徐々に増え、張り切っていたように見える久女でしたが、『花衣』は5号で突然廃刊になりました。
『花衣』5号は1号~4号までの充実ぶりとは違い、久女が寄稿を依頼したと思われる田中王城の「八月十六日宮津にて」と題された巻頭の3句と、橋本多佳子の「葛の雨」と題する随筆、それに大阪に転居した橋本多佳子を迎えて句会が催されたらしく、その時の句会報を載せただけで終わっています。なので5号は、あたかも久女の廃刊宣言の為に出されたような感じです。
王城や多佳子の寄稿は、久女が二人に寄稿を依頼した時点で『花衣』廃刊などまったく考えていなかったことを物語っているように思われます。この様な事から考えても『花衣』の廃刊は何故か、あわただしく決まった様に感じます。
久女の〈廃刊について〉と題したの文章の一部を見てみましょう。
〈折角皆様のご親切なご声援にもかかわらずこの度私の健康と家庭の都合に
より、廃刊いたすことと相成りました。
皆様のご親切にむくいまつる間とてもなく誠に申し訳ない事ながらお許し
下さいませ。
私もまだまだ力足らず二人の子の母としても、又滞りがちの家庭の事をも、
もう少し忠実にしてみたく存じて居ります〉
廃刊の理由として、久女の健康と忙しすぎて時間がないこと、そのことで夫、宇内の不興をかったらしいことが書かれているだけです。あれだけ意欲的で希望に燃えた「創刊の辞」を書いたのと同じ人が書いたとは、とても思えない紋切り型の文章です。
『花衣』4号の編集後記を書いたのが7月26日で「廃刊について」を書いたのが8月28日となっていますが、この約1ヶ月間にいったい久女に何があったのでしょう。
今回の記事の主題ではありませんが、俳句の為に家事がおろそかになり、夫に小言の言われどうしであるという様な、久女の文章を読むたびに、久女が夫の言うことなど歯牙にもかけず、自分の俳句道に精進する強靭さを何故持ちえなかったのか、歯がゆい気がします。
それは夫と対立するとか不仲になることと少し違い、うまく表現できませんが、夫に干渉されながらも、俳句道にも精進を怠らないというような意味に於いてです。結果的にみると彼女は俳句史に残るような名吟を数多く残している人なので、実際はそうしていたのかもしれませんが、そうであれば、後々まで残る文章に夫の言動など書かなければよかったのにという気もします。
この〈廃刊について〉の文中にも、その様な箇所がチラッと出て来るので、「あぁ~、又か」という思いになりました。