俳誌『花衣』を創刊した久女は、主宰吟として数々の句を発表することになり、積極的に北九州各地を訪ねています。小倉近辺には古典好き、万葉好きを自認する久女の心を刺激する場所があったのは、彼女にとって幸運なことでした。
筑紫(主に北九州)は神功皇后をはじめとする古事記、日本書紀の伝承にゆかりの深い場所で、彼女の記紀、万葉ヘの憧れは、そこに行き実際にその風物に接することで、万葉調の作品となって結実しました。万葉調とは、作者の思いを表現する時に万葉集の語彙を用いたものをいいます。
『花衣』2号に載った主宰吟は「企救の紫池にて」として万葉集の歌にちなんだ作品でした。
「万葉の 池にかがみて 嫁菜つみ」
「菱つみし 水江やいづこ 嫁菜むら」
「摘み競う 企救の嫁菜は 籠にみてり」
『花衣』3号には「無憂樹のかげ」と題して次の5句を発表しました。
「無憂樹の 木陰はいづこ 仏生会」
「ぬかづけば われも善女や 仏生会」
「灌沐の 浄法身を 拝しける」
「風に落つ 楊貴妃桜 房のまま」
「むれ落ちて 楊貴妃桜 尚あせず」
この「無憂樹のかげ」の5句で、久女はついに念願の『ホトトギス』雑詠の巻頭を得たのでした。
この5句のうち3句目までは、小倉広寿山禅寺において詠まれたもの。下の楊貴妃桜の句は、花衣会員たちと八幡の公餘会倶楽部(現新日鉄研修所高見倶楽部)で句会をした時に詠んだ句で、この5句とも久女の代表作になっています。
4号では2号と同じくこんな万葉調の句を発表しています。
「萍(うきぐさ)の 遠賀の水路は 縦横に」
「菱刈ると 遠賀の乙女は 裳に濡(ひ)づも」
このことからみても、久女の句境はいよいよ円熟の時を迎えているように思えます。
『花衣』は後に述べる様に5号で突然廃刊になってしまうのですが、『杉田久女句集』にある久女の代表作といえる句が、『花衣』で次々に発表されたのを知る時、ほんの短い間であっても、久女がこの俳誌を創刊した意義は大きいと思うのです。
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