久女が俳句修行の場として丹精込めて作った俳誌『花衣』は、久女絶頂期かと思われた昭和7(1932)年9月、5号で突然廃刊になりました。
久女は廃刊の理由として〈廃刊について〉の中で、「私の健康と家庭の都合により」としか述べていませんが、廃刊の背後には様々な事情が絡んでいたことは間違いないでしょう。というのは4号には『花衣』への並々ならぬ意欲が感じられ、廃刊の予兆などまったくないからです。
久女の長女昌子さんは廃刊の理由として、久女年譜に〈家事の多忙と雑務に追われ作品の低下するのを恐れたのが理由〉と書いておられますが、一方で昌子さんの著書『杉田久女』のなかにはこんな記述もあります。「虚子先生もお嬢様の立子さんが『玉藻』という雑誌を始めていられるから、私があんまりやりすぎるべきではない。自分の余力があったら、向うをご援助すればいい」と久女が言っていたと。
<石昌子著『杉田久女』>
『花衣』創刊号に「春着」と題する近詠3句を贈った虚子でしたが、送られて来た『花衣』を実際に手に取って見ると、予想以上に充実しており、また復活した橋本多佳子、中村汀女が参加しているのも気になったかもしれません。
『玉藻』は昭和5年6月創刊で、久女が『花衣』を創刊した頃は丁度1年半から2年目に差し掛かる重要な時期でした。ちょうどその頃『玉藻』と同じ女流を中心にした『花衣』が出現したことは虚子陣営にとって喜べないことだっただろうと思います。
この頃の高浜虚子にとって、次女星野立子が俳誌『玉藻』を主宰することにより、経済的安定を得、俳人としての地位を築くことは、一番重要なことだったと思います。
地方の小さな『花衣』程度の俳誌は、脅威というほどのものではないにしても、主宰者の久女と立子を較べると、実力人気ともに久女の方が勝っていることは誰もが認めることでした。
なので、『ホトトギス』(『玉藻』)陣営から何らかの働きかけが、久女にあったのかもしれません。そんな場合でも虚子は表面には出なかったでしょうけど...。
それとは逆に(44)で書いた様に『ホトトギス』7月号で久女に初めて雑詠巻頭を与えています。ある研究書には、「雑詠巻頭を与える程、虚子先生は貴方を評価されているのだ。そのあなたが先生の娘の立子さんの主宰する『玉藻』に対抗して、女性俳誌を出す必要がなぜあるのですか」といったひそかなささやきが、久女の耳に入ったのではないか、などとの記述もあります。
突然の廃刊の理由は、久女が亡くなっているので永遠にわからないのですが、たとえ周りから色々な雑音が聞こえたとしても、ページ数を減らすとか、季刊にするなどして、発行し続けることが出来なかったのかと思うと、非常に残念な気がします。
廃刊してしまうのではなく、現実と折り合いをつけながら、どんな形であれ発行し続けることが出来れば、最小限でも句や文章の発表の場が確保できたと思うのです。
久女は自分の事を〈中庸のない性格〉といっていますが、『花衣』を何らかの形で続けながら、時間をかけて気長に周りの理解を得ていくことをせず、スパッとやめてしまったのは、彼女自身の言う〈中庸のない性格〉がそうさせた、というのは言い過ぎでしょうか。
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