きょうも涼しい。
というか、まだ梅雨入りしてないっていうのがびっくり。
とっくに梅雨なのかと。
伊集院さんがラジオで「サラリーマン川柳はサラリーマンが詠んだものではない」って、
知って驚いたという話をされてたんだけど、
短歌はフィクション、って断言されるのも、うーんっていう感じ。
わからなくもない。
自分もサラリーマンの人が投稿してるって思ってた。
小説でも「モデル論争」っていうのがときどきあるみたいだし、
漫才やコントでさえ、ネタなのかキャラなのかわからない人もいるらしいし。
同じできごとが起きても、人によって感じ方はいろいろ。
で、その表現方法もいろいろ。
なかでも、詩とか短歌とかは、わりとストレートに、
その人なりの切り取りかたを楽しむものかと思ってた。
某番組の俳句の添削が見てられないのも、
本人が感じたり、切り取ったりものが、
第三者にまったく別のものにされてしまうことがあるからだし。
もちろん、創作だから脚色もあるんだろうし、
事実であることにこだわる必要もないし、フィクションのものもあっていいとは思うんだけど、
なんというかその余計な”フィルター”をはさむ必要ってあるんだろうか。
創作ってなにがしか経験したり体験したりしたものを、
消化したり反芻したりして自分の中から表現するものであって、
まったくその人の中になかったものは出てこないような。
どんなオリジナル作品でも、たいていは”元ネタ”のようなものがあって、
まったくありもしないことをほんとにみたいに書ける人は、
それはそれで別のカテゴリーの人なんだろうし。
ほんとのこと、って思われると嫌ってことなのかな。
じゃあ、書かなくてもいいんじゃないのって思うけど、どうなんだろうなあ。
ドキュメント、見る気もないのにまたうっかり見てしまう。
ゆうべもちらっと裁判員制度のを。
裁判官の感覚が市民とずれている、ってことから始まったはずのこの制度。
最後のほうに出てきた弁護士の人たちを見てると、よけいにそう思った。
有罪か無罪かなら裁判になる時点でほぼ決まってるはずだし、
凡例に従うだけならAIでじゅうぶん。
そうなったら、司法試験すらもう必要なくなるんではないのかな。
市民を見下すような選民意識を持った人たちならいなくなった方がまし。
そもそも、加害者の権利って被害者やその家族よりも守らないといけない必要があるんだろうか。
裁判員の選定は考える必要があるかも。
仕事を持っている人が休むのは難しいし。
60代以上の人とかを重点的に集めるのもいいと思う。
法曹界に閉じこもった人よりかは人生経験を積んだ人がたくさんいるはずだし。
あと、おもしろいなあと思ってるのは『老後に2000万円不足』
どこに住んでるかとか、どういう生活水準でとか、
何年生活するかによっても、老後に必要な金額って変わってくるはず。
いくら必要かは人によって違うのはあたりまえ。
それを脊髄反射みたいにわあわあ騒ぐのってどうなんだろう。
年金だけで暮らしていくのはいまでもたいへんなはず。
なら、大事なのは「これからどうすればいいか」なのでは。
それを納得いく形で国民に提示できれば、次の選挙は野党が勝つのだろうけど。
あと、たいへんなことになってるのは香港のデモ。
100万人規模とはこういうことか。
忘れないようにしとかないと。
でも、アメリカの動きとかG20開催の時期とか、
絶妙なタイミングで起きてるように見えるのは…
反G20デモというニュースもあったけど、
『15人ほど』の参加者というのをわざわざ報道する理由って?
100万人のデモを見たあとには…
『貧困や格差など世界の大きな課題は解決できない』っていうのも、
そういう場ではないから、としか。
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