なんかいろいろ落ちついてひさびさにゆっくりできた日。
別にどっか痛いわけでもないし、
具体的にどこが、というわけではないけれど、なんかだるい。
だから一日だらだらしてるけど、こういう日もあっていいと早々に決めた。
フジパンのミッフィー。
点数を数えてみたら20点あった。
ちょうど1ヶ月で10点のペース。
でも、油断すると終わってしまうから気をつけないと。
ラジオでかかってた、リタ・フォードの"Kiss Me Deadly"聴いた。
あるひーぱぱとーふたりでー、って歌いたくなるのは自分だけかな。
ジョーン・ジェットと同じバンドにいた人とは思えない。
ワーロックといえばこの人か、初期のポイズンっていうイメージ。
長いあいだ、病院で待ってる間に本は読めた。
「検索バカ」
藤原智美さんは読売新聞のコラムで毎週読んでたけれど、本を読むのは初めて。
「空気を読む」ために「検索」して人の意見を気にする人たち。
なんでもかんでも同調圧力のせい、みたいなのはどうなんだろうかなと思うけど、
もしそうなのだとしたら、それは処世術に近いのではないかと思う。
傍若無人な人はそこかしこにいるし、言いたい放題の人もどこにでもいる。
ワイドショーも言いたい放題。
「魚河岸」を「妨害」と捏造して放送してもだれも責任は取らない。
たぶん、萎縮しているのは”有識者”でもなく”著名人”でもなく”無敵の人”でもなく、
この日本を支えているどこにでもいる名もなき「ふつうの人たち」なのだろう。
出すぎた杭は打たれないけれど、
そういう「ふつうの人たち」は、そもそも打たれないようにするために検索をするのだと思う。
でも、そういうやり方が絶対的にまちがってるとも思わない。
これっていう確信が持てないことについてまで、いちいち意見を持つ必要があるのかどうか。
ふつうに生活している人たちにそんな時間の余裕があるわけではない。
流行りの服を着て、流行りの店で食事をして、流行りの音楽を聴いて、流行りの本を読む。
それで満足できるならそれでもいいはず。
専門外のことについて適当な意見を言っても叩かれないコメンテイターとはわけが違う。
自分は自分だし、他人は他人。
本音を明かす必要のない人に、本音を言う必要はない。
ふつうの人には波風を立てるリスクなんて負えない。
でも、そういう「ふつうの人」たちでも絶対に譲れない部分についてだったら、
空気なんて読まないんではないかな。
マスコミに踊らされなくなった、ということだけにしても、
10年前とはだいぶ違ってはきてるような気がする。
おかしいなと思ったら「検索」する、ということがあたりまえになってきたからではないか。
それは、自分で考えている、ということでもある。
大新聞やTV・ラジオが垂れ流し、押し付けてくる「正しい」ものではなく、
「ふつうの人たち」が考えていることに検索で触れてみて、また自分も考えてみる。
そうやってはじめて自分の意見を持てるようになるのでは。
マスコミは「ふつうの人たち」が自分たちの意見を丸のみしないことを”萎縮”と呼び、
そうやって考えはじめた「ふつうの人たち」のことは”同調圧力”にしばられていると決めつけている。
スポーツマンはさわやか、大学は行くべき、三種の神器、マイホームパパ、郊外の一軒家。
体育会信仰、学歴信仰、家族のありかたなど、
ありとあらゆる場面で幅広く、あるひとつの「正しい」価値観を押しつけ続けることで、
「ふつうの人たち」を”萎縮”させてきたのはマスコミだし、
そうでない人たちに劣等感を植え付けて”同調圧力”を作り出してきたのもまたマスコミなのに。
何か所かご自分の過去の失敗をわりとあからさまに書いてるところがあって、
隠したいことをきちんと公にできるっていうのはすごいと思うし、
そういう人も、そんな人が書く本も信頼できると思う。
この方のコラムをのせてた読売新聞はえらいと思うけど、
終わらせてしまったのは愚かなことだなあ、と。
もう一冊読んだのは「糸を出すすごい虫たち」
虫というよりも、虫が出す「糸」という素材を研究している方の書かれた本で、
ちょっと自分の興味とは、ずれてた感じ。