だんだん暑くなってきてやだなあ。
でも、いまは「そろそろ夏休みも近い」って気分になる、
なんだか気持ちのいい初夏の夕暮れって感じ。
まだ梅雨も来てないけど。
あのわくわくした感じって今年はないのかも。
夏休み前借りしてるもんね。
「短歌de胸キュン」再再再放送なのかな。
なんとか見られた。
おもしろいなあと思ったのは「子鮫」の歌だった。
『有頂天家族』の「毛玉」みたいな言い回し。
関係ないけど、高校生の時に兄が使ってたチャック付きのペンケース。
三菱の緑色とかブドウ色の鉛筆を入れとくと、
だいたいなにかに削られて傷だらけに。
ある時、クラスメイトにすごい真顔で、
「鉛筆かじるの?」って聞かれてすごい恥ずかしかった記憶が。
あと、うちにいたインコがなんでもかじってた。
死んでしまっていなくなったあとに、
かじられた新聞やらなんやらを見るたびに悲しくなってた。
インコが死んだって書いてた人がいて、
そういうのを聞いただけでもらってしまいそうに…
今月は難しそうだからパスしようかなあと思ったら、
とりあえずは意外とおもしろそうな「100分de名著」
伊集院さんが言ってるのはすごくわかる。
自分が見ているもの、聞こえているものが、
ほかの人と同じとは限らないし、
自分の話していることさえ、自分の主観が入っているから、
事実とはかけ離れているのかもしれない。
そう考え始めたら、なにも言えなくなる。
例えば「いい天気ですね」っていう言葉も。
相手にとっていい天気かどうかはわからないのだし。
いろんなものに配慮して「多様性」を尊重するあまりに、
「ふつう」とか「一般的」なんて言葉を毛嫌いしていくと、
なにも言えることはなくなってしまうのではないかな。
みたいなことかな。ちがうかな。
で『人間の感じ方は違うけれど、そこに共通なものは取り出せる』
『「絶対」ではなく「共有できるところ」はなにかを
それぞれの心の中に探っていく』と。
どんな人間の主観も同じ共通規格を持っている、
というのだけど、ほんとうにそうなんだろうか。
住んでいるところや文化の違いで違ってたりしないんだろうか、
って考え始めたのが、西田幾多郎だったりするのかな。
難しいことはわからない。
でも、最近思うようになったのは、
「共有」とか「共通」とか「共感」って必要なんだろうか、ということ。
自分が感じていればそれでいいことだし、
自分がわかっていればそれでいいことのように思える。
そして「理解」や「共感」を他人に要求しながら「同調圧力」は嫌う人たち。
自分の意見は押し付けたいけど、自分は人の言うことは聞きたくない、と。
それは、矛盾とすら言えない、ただのワガママでしかないと思う。
きのうの新聞でちょっとおもしろかったのが「コロナピューリタニズム」
他者との過剰な接触を避ける、という行動が無意識に継承されてきた結果が、
日本にコロナが拡散しなかった要因なのだとすれば、
それは、過去に日本人が感染症に悩まされてきた結果、残った行動なのでは。
道徳とか、戒めとか、言い伝えって、だいたいそんなもんだと思うし、
だからって、なにが悪いっていうのか。
高温多湿ではべたべた接触を好む人たちは生き残ってこられなかった。
ただ、それ以上でもそれ以下でもないような。
それでも、外交的な人はたぶん行動を変えないし、
そういう人の中にも生き残る人はいるし、
外交的な人だからこそ、かえってそれ故に多くの遺伝子を残していくはず。
ペストがあれだけ猛威を振るったヨーロッパで、
握手やハグやキスがなくならなかったのを見てもわかる。
結局「晴耕雨読」の健康的なひきこもりもそれなりの市民権を得るし、
積極的に他者と関わりたいっていう人も当然生き残るようになっていく。
どっちが正しいわけでもないし、限りなくどうでもいいことのような。
ひきこもり、と蔑まれた人が生きやすくなる、というだけでいいことに思えるかな。
「自粛警察」っていうと、
ブルーインパルスだ、花火だ、いろいろケチつける人のこともそういうらしい。
「日の丸マスク」なんかもそうだったけど、
ちょっと調べるだけで、いろいろ事情も分かるはずなのに、
脊髄反射でつぶやいて叩かれて「誹謗中傷」って騒ぐまでがセット。
で、そういう人に限って、人には「勉強しろ」と…
そっちのほうがずっと問題に思える。