長崎市の被爆の日、毎年この日は複雑な思いです。 故人になりましたが当時、伯父が小倉に住んでおり小倉が最初の投下目標だったのです。 しかし前日の八幡空襲で視界が悪く、原爆の電池と機体の不具合(燃料系統)で第二目標の長崎に変更されました。 父が当時小倉に頻繁に行き来しており、もし小倉に原子爆弾が落ちていれば、自分はいなかったのかもしれません。
「ながさき」に最後まで使われていた寝台車です。
スハネ16 62、1986年10月 原田駅
オハネ12 29 1986年10月 原田駅
オハネフ12 58 1988年5月 西八幡駅跡
このうちオハネ12 29は原田からはるばる高崎まで送られ碓井で保存されています。 この撮影の直後でした、 スハネ16 62は1988年 5月頃に香椎貨車区跡で解体されました。 オハネフ12 58はこの撮影以後のことは不明ですが、恐らく現地で解体されたと思われます。
「ながさき」に乗りたかったのですが、浪人してましたのでかないませんでした。 長崎駅の三角屋根の駅舎と共に思い出になりました。
「ながさき」に最後まで使われていた寝台車です。
スハネ16 62、1986年10月 原田駅
オハネ12 29 1986年10月 原田駅
オハネフ12 58 1988年5月 西八幡駅跡
このうちオハネ12 29は原田からはるばる高崎まで送られ碓井で保存されています。 この撮影の直後でした、 スハネ16 62は1988年 5月頃に香椎貨車区跡で解体されました。 オハネフ12 58はこの撮影以後のことは不明ですが、恐らく現地で解体されたと思われます。
「ながさき」に乗りたかったのですが、浪人してましたのでかないませんでした。 長崎駅の三角屋根の駅舎と共に思い出になりました。