台車を仮つけしました。
「ポイントマシン」/欧・「スイッチマシン」/米、の呼び方があります。 自分は日本の電気は米国式を基本にしてるので米国式にしています。 例えば100V15Aの家電製品の一般的な電源プラグは「Aタイプ」で米国式、アナログテレビの放送方式はNTSCで米国式、オーディオやビデオで使われるピンプラグは本来はRCAプラグといい、これに対するはDINという欧州式のプラグや規格があり、ベンツやBMWののカーオーディオもそれに準じていました。 また富士川糸魚川西は60Hzはアメリカ式、東は50Hzで欧州式です。 交流25000V60Hzで走る東海道新幹線は東京まで60Hzの電源を送り込んでいます。 仕事でふと思い出した話ですが百貨店にいたときにパリコレなどの欧州のビデオを見るのにそれに対応したPAL SECAM だったかに対応したビデオを扱っていました。 結構注文があってかなり売れましたがファッションや鉄道ビデオならともかく何を見てたやら。 ふと思い出したことですが、もう前時代の話です。
手持ちのスイッチマシンがあるのですが、バネがないので取付できません。
そこでここのお店に用事があったので聞いてみました。
入手できました。 しかし本来のスイッチマシンは「ポイントモーター」といったような。
暑い一日でした。
手持ちのスイッチマシンがあるのですが、バネがないので取付できません。
そこでここのお店に用事があったので聞いてみました。
入手できました。 しかし本来のスイッチマシンは「ポイントモーター」といったような。
暑い一日でした。
大義名分をつけながらも関西に行くのは模型が目的、京阪神間を回って1両手に入れましたが、再生産するとか。 ともかく令和最初の新車です。
朝の円山公園です。
長楽寺山門です。 天皇陛下即位の時に開帳される本尊を拝観します。
本堂の背後から見た京都市内です。 水戸藩士のお墓がありました。 昨年、水戸の方にお世話になったので手を合わせます。
この後は京都の模型店巡り、早めに新幹線に乗ったので自宅に着いたときはまだ明るかったです。
サウナで泊ったので朝食は外で済ませます。 疲れていると仮眠室でよく眠れるのと夜中でも湯船に入れるので自分にはサウナで充分です。 いつもの立ち食いそばで、きざみとバッテラでしたが、最近は外人客が多いです。 外国人観光客に英語で「そばとうどんとどちらが良いか聞かれました。 「うどんは柔らかくて京都のもの、そばは関東(東京)のもの」と答えて「にしん(ボイル)はそばがいい」と答えました。 うどんを注文した外国人観光客が「オイシイ」を連発していました。
おなじみの二条駅舎です。
阪和線で活躍したEF52です。 冬季は暖房車が必要だったことと50-3の新幹線博多開業でEF58の転属で引退しました。 EF5866は広島から龍華にやってきました。
重みのある銘版です。
この後は大阪に向かい模型店巡りですが欲しいものはなく、明日は朝早くから京都で行きたいところがあるので戻ってきました。
少しだけ眠り、和歌山の用事を済ませます。
ホテルは「世界一党」の蔵元のそばです。 「みなみの星」が美味です。 和歌山駅まで歩きます。
戦災の慰霊碑の前を通り、消防署の前へ来ました。 模型のネタになりそうな「普通のトラック」の消防車です。 機材の輸送用と思われ大きいほうはユニックがついています。 「消防車」なので88ナンバーです。
戦災の犠牲者の慰霊碑がある汀公園から見た和歌山城です。 空襲で国宝だった和歌山城も消失しました。
中橋は元鉄道橋でした。 中橋の袂に戦災の犠牲者の追悼の地蔵があります。 空襲で汀公園では焼死、満潮だったので中橋では溺死で多数の犠牲者がでました。 長崎に原爆が投下される1ヵ月前のことでした。
和歌山に着きました。
和歌山線で目的地に向かいます。 高校2年間を通学で利用しました。 その頃はキハ35や36、そして58が使われていました。
和歌山に戻ってきました。 クモヤ443がいました。
阪和線は左に折れて紀勢線につながります。
昼前には京都に戻ります。 本来の用事は3時間ほど。 夕方からは自由時間です。
ということで嵐山に行ってみました。
ヤマト運輸の専用荷物列車、「回送」の表示が残念。 せめて「貸切」の表示が欲しかった。
深夜に和歌山に着き早朝から行動した忙しい1日でした。 早めにサウナに着きましたが、20時には床に就きました。 明日明後日はフリーです。
ホテルは「世界一党」の蔵元のそばです。 「みなみの星」が美味です。 和歌山駅まで歩きます。
戦災の慰霊碑の前を通り、消防署の前へ来ました。 模型のネタになりそうな「普通のトラック」の消防車です。 機材の輸送用と思われ大きいほうはユニックがついています。 「消防車」なので88ナンバーです。
戦災の犠牲者の慰霊碑がある汀公園から見た和歌山城です。 空襲で国宝だった和歌山城も消失しました。
中橋は元鉄道橋でした。 中橋の袂に戦災の犠牲者の追悼の地蔵があります。 空襲で汀公園では焼死、満潮だったので中橋では溺死で多数の犠牲者がでました。 長崎に原爆が投下される1ヵ月前のことでした。
和歌山に着きました。
和歌山線で目的地に向かいます。 高校2年間を通学で利用しました。 その頃はキハ35や36、そして58が使われていました。
和歌山に戻ってきました。 クモヤ443がいました。
阪和線は左に折れて紀勢線につながります。
昼前には京都に戻ります。 本来の用事は3時間ほど。 夕方からは自由時間です。
ということで嵐山に行ってみました。
ヤマト運輸の専用荷物列車、「回送」の表示が残念。 せめて「貸切」の表示が欲しかった。
深夜に和歌山に着き早朝から行動した忙しい1日でした。 早めにサウナに着きましたが、20時には床に就きました。 明日明後日はフリーです。
サザンには供食設備がありますが、その昔、南海に「クイシニ」という特別室と食堂車のついた車両がありました。 車販設備もあり、近鉄にスナックカー(12000系・12200系)や小田急のロマンスカー、サハ164に車販設備があります。 また北海道のキハ183系のグリーン車にも供食設備がありました。 南海はその先駆けだったのでしょうか。
出発が遅れたので市駅に着いたのも1時前です。
「きのくに」は眠っていました。 ホテルに着いて風呂に入ってちょっと出かけます。
どうしても和歌山に行きたいので仕事が終わってから行くことにしました。 昭和56年の現役の時の受験の時は、東京発1848の「ひかり」で新大阪から緩行線、大阪から環状線外回りを乗り継ぎ「はやたま」で帰りましたが、今回は新横浜2042発の「のぞみ」で新大阪で地下鉄で難波まで行き、最終の「サザン」で和歌山に向かいます。 10代ならともかく初老になるのに無茶やりますが、20日の午後はどうしても外せない用事が京都であるので、昼過ぎには和歌山を出発する強行軍です。
自由席車がなんば寄りです。 空いてればこれで充分です。
喉が渇いたので一杯。
車内の様子です。 GSEより作りが良いと思うのは贔屓目か。
今はメーカーが廃業しましたが、東急ハンズでマンテンのジャンボファングルを扱ってました。 まだまだ使えるのでそのまま使っていますが、アングルは代用が聞きませんが、棚板とネジは流用ができます。 棚板は楽天のキタジマで東大阪の会社です。 各種サイズが揃っています。 ネジは8mmで秋葉原イモンの1階でボルトは買えますが、ナットは13mmのスパナが必要です。 8mmのナットは大体12mmが多いので大阪の日本橋のナニワネジでフランジナットを購入しています。
「リビングルーム」と言ってますが「居間」の直訳か、我が家では「台所」と言ってます。 そこにレイアウトを作るべく用地買収と整地ならぬガラクタの整理が進んでいます。 発掘したのがずいぶん昔に組み立てたアダチの貨車。 20代の時に組み立てたものです。
手持ちの部品で間に合うと思っていたら考えが甘かったです。 客車の部品ならそこそこありますが電車とは勝手が違います。 床下機器が出てきましたので工作開始です。