5月に運転会は「引退宣言」しましたが「動かさなければ模型なんていらない。」と思いながら小規模ながら開催することにします。 来月末に予定してるのでパワーパックの整備をします。 今月も終わり、新しい生活になれてきました。
シンナーで油を落とし水洗い水洗いします。 ここからは手を触れられません。
トップコートを吹きます。
台車を外しました、シンナーで洗ってトップコートを吹きます。 週末は仕事ですので工作ペースが落ちます。
本日発売分です。
59-2改正でひっそりときえた「さんべ」、座席車は「山陰」に転用されました。
12系併結化改造されてるので20系にもどることもない「さんべ」の20系客車です。 1984/8出雲市にて。
どんな気持ちで事件を起こしたのか、しかし人を殺めることはゆるせないことです。 しかしその真相は本人にしかわからないことでしょう。
秋葉原の歩行者天国は実施されないことになりましたが、かつてビデオカメラを使ってデモンストレーションをしてたのが懐かしく遠い思い出になりました。 かわいい子(ロリコンではありません)を見てレンズを目線にして撮影しましたが、すでに30年以上まえになりました。
近所のそば居酒屋で突出しででてました。 厚めに切った蒲鉾にワサビ漬けを添えたシンプルなものです。 剣菱を冷やして出してくれるお店で少し高めでしたが突出しだけで剣菱3合呑んでそばを〆にしてました。 若い女性がやってましたが、このお店は6月で廃業しました。
メインはぶりのカマ焼きです。 塩を振ってよく焼きます。
ビールはラガー、酒は剣菱と定番です。 今夜の家のみでした。
先日修理したオロ11です。 台車を洗って塗装します。 小倉工場に入るのでサッシはアルミ色です。
懐かしい画像です。 86頁の東舞鶴は小浜線の客車やオハユニ61の屋根上の様子がよくわかります。 そして120頁の和歌山駅周辺はお城こそ写ってませんが南海本線の端や当時住んでいた家が見えます。
「マッハ模型を語る」で購入、 54頁から58頁に掲載されてます。
父に連れて行ってもらったのが旭屋書店時代、1975年の夏休み最後の日曜日でした。 そばに電気工学の本の売り場がありましたが、その本に見入ってしまいました。
マッハの近くにいたのは1976年に津に引っ越すまででした。 阪急沿線に住んでたので梅田で降りて警察の前の階段を上がってエスカレーターで上りました。 型紙や小高の床下機器を買いました。 中村精密のナハ10をお年玉で買いました、その時に「塗るなら屋根とサッシだけ塗ったらええで。」と言ってくれました。 当時のマッハの鉄道カラーが180円でしたがプラ用が300円でかなり高かった記憶があります。 紛失してしまいましたが洋白の阪急2800の中間車のエッチング板を求めました。 窓1個所を抜いただけでした。
津に引越してからは高校受験もあり疎遠になってしまいましたが、高校入学後は工専に行った友人と朝一番の伊勢中川行きの急行に乗って、その車両が折り返して上本町行きの区間快速急行になり鶴橋で環状線に乗り換えて大阪で降りたり、日本橋で工具を求め梅田に向かったこともありました。 初めて真鍮工作の半田鏝を買ったのが日本橋でした。
和歌山に引越してから模型店巡りを覚え、和歌山市駅から新今宮、京橋はええとこですが乗り換えて放出、池田さんの工作を拝見し再び京橋で乗り換えて大阪で降りる、帰りは御堂筋線で難波というルートでした。 井川さんの兄弟喧嘩も「やっとんなー」と思いながら見てましたが、有名だったんですね。
ラジオでマッハ模型が放送されたこともありました。 MBSだったと思いますが大盛況で身動きが取れない状況でした。 「やっぱりすごいお店だ。」と思いました。 関西の模型店全体に言える、関西についてすべていえることかもしれませんが「誂えの文化」が強くお店独自の商品や加工品がありました。 今年で関東に出てきて40年になりますが「離れてわかるそのよさ。」を感じました。 「関西の文化」の一つが消えていきました。
昨日発売分です。
「ちくま」は高校生の頃始発の新幹線に乗って東京に向かうときに大阪から新大阪に向かうときにすれ違った記憶があります。 20系の12系との併結改造は12系+20系1000(440V→660V変圧器)+2000(変圧器なし中間車)+1000(緩急車)とドアの自動化と火災報知器の連動でした。
百合丘駅から出発します、
「箱根そば」でしたが、
歩いて潮音寺へ、山門はありません。
本堂です。
歩いて香林寺に向かいます、五重塔が見えます。
幼稚園を併設してます、幼稚園の先生だった母を思い出します。
入口です。
山門。
本堂です、工事中ですので五重塔と高石神社は後日にします。
「ベテラン」の意味を調べてみました。
ベテラン【veteran】
読み方:べてらん
老練者。ふるつわもの。
長年の経験を重ね、その道に熟達した人。
「老練者」と「ふるつわもの」の意味だと「長くやってる」と言う意味です。
「長年の経験を重ね、その道に熟達した人。」とあります。
勤めてた会社の制度で「ベテラン」と言うランクがあって成績のいいひとが選ばれてました。 企業は数字のみ見るだけですからその判断になるのですが、数字がいいのはともかくその仕事が最後までできるかということになります。 結局後処理は若手がやるので「おいしい仕事」しかしないのです。
担当してた店舗で「この人はベテランです。」と紹介されて職場に来ました。 最初はそれなりの扱いを受けてましたが徐々に何もできないししようとしない、ということでした。 リタイアした人がそれなりの立場にいたわけですがどうしても上から目線でおいしい仕事しかしない人がほとんどでした。 そこで「ベテラン」と言うことが「老害」の代名詞に使われ会社側もそれを認め持て余すことに、若手からも疎まられることになります。
ケーディーカプラーのポケットが破損したので「使うだろ」と思いながら買ってあったポケットで補修しました。 昨今、イモンの連結器が大々的に使われてるのでそっちにするのがいいのですが、どうしてもうまく組めないので使ってません、自称「万年初心者」ですから。
そう思いながら自分も「長くやってるだけ」と感じてます。
帰宅して自室の照明がつかない、暗がりの中困るので仕事柄大体の原因はわかるので灯具を開ければこの有様。 今はLEDの照明がほとんどですが、父の部屋は球が切れたとかで最新の灯具に入れ替えてるので当然の如くLED。 しかし自分はほとんど家にいないので古いものをそのまま使ってます。 仮住まいの時に同じ照明器具を2個買ってますので球が切れればあまり使わない部屋の球を外してつけてます。
買いに行くのが億劫なのと買い替えた方が早いと思ってるのでそのままですが、外した球を見てると古い記憶がよみがえる。 それは近代化改造した客車、青色のオハ46とかの話です。「そういえばこんな球がついてたな。」と思うと懐かしくなってきました。 丸いサークラインあり直管ありで保守する方も大変なのか駅や施設の照明と消耗品は一緒に管理してたのか、今から思えばそんなとこでしょう。
三菱重工㈱長崎で護衛艦「矢矧」が進水しました。 「武蔵」を造ったのも三菱長崎で「武蔵」はオール電化でディーゼル発電機が8機、内装は豪華客船だったとききます。 戦争は望ましくありませんが「矢矧」も素晴らしい姿で完成することでしょう。
模型はLEDの照明を使ってますが自室は従来の蛍光灯、住人よりも模型が優遇されてます。
雑誌に紹介されてましたが、輸送量の需要と設備に応じて車両の増減をします。 43-10で早々に廃止されましたが「雲仙・西海」が東京から肥前山口まで併結されてたのがあります。
キハ82で列車設定により分割・併合で小田急の相模大野駅の例を参考にしたと聞きます。
到着、出発信号機と連動する中継信号機は「停」。
小田原行き出発、ここからは見えませんが小田原線の出発信号機の右側は「進行」。
片瀬江ノ島行き出発、小田原線は「停」、江ノ島線は「進行」で中継信号機も「進行」、小学生の頃、スイッチマシンとリレーを組み合わせてポイントと連動して模型を走らせました。 その頃から発達してないと。