メリークリスマス。
クリスマスというとサンタクロースの靴を思い出します。
あの、お菓子が入っている靴なんですけど。
中身の入った靴ではなくて、母が内職で作っていた銀色靴です。
なんとなくですけど、作る順番を覚えています。
中身にどういうお菓子が入っているのかは判りませんけど
作り方を、糊付けのコツだとか覚えているって
ある意味自慢出来る様な気がする。
靴以外にもセルロイドの花だとか、なんとなく覚えてる。
なんとなくではないのは、そういう内職とかで
何不自由考える事も無く育てられたという幸せだ。
私にとっての小さな頃はサンタクロースが居るとか居ないとかの
問題など端からなくて、サンタはお金持ちの家にしか来ないものと
何の不思議も無く思っておりました。
クリスマスといえば、ケーキが食べられる唯一の日。
兄弟多いですから、ひとつのケーキが結構小さく切られます。
サンタだとかチョコの家だとかが欲しい問題については
なんとなくですが、一番年下の私が結構良い思いをしたような
思い出がそこはかなく頭の脳裏にあります。
その頃のケーキに対する思いがそのまま残っていたら
ケーキ屋さんになる選択も人生の分岐点であったかもしれない。
そういう意味では、ケーキ業界としては惜しい人材だっただろう。
クリスマスプレゼントだとか無くてもクリスマスはクリスマスだ。
ちょっと覚えているのはキリスト教を広めるような家に行って
どういうわけか、本を貰ったり、おやつを貰ったりした
いかにも俄かキリスト教徒になった事だ。
広める家の人も俄か教徒というのは充分知っていて布教する
とかいうよりも、今日だけでもキリスト様にお祈りしましょう。
というような感じだった。
いつの頃からだろう、鶏のモモを食べるようになったのは
かなり大人になってからのような気がする。
必ず食べなくてはいけないような気がしてた。
鶏のから揚げって社会人になってから『チキンバスケット』とか
小洒落た名前になってスパイシーになってからの
記憶が鮮明である。
ケンタッキーフライドチキンに感動したのはつい最近のように
覚えている。
そういう風に大人になってから初めての出会いが多いというのは
幸せな事だと思う。出会いが多いのは幸せな事なのだ。
物が無いという幸せ、物が無かったという幸せは
いまや、物があるけど手に入らないという不幸に変りつつある。
物を求めないという選択肢を選べる事になかなか気づかないけど。
メリークリスマス。