魔女のひとりごと

★ 魔女になろう!

いとこ訪問 -4- 最年少のいとこ 

2013-06-30 | ファミリー
自衛隊札幌病院でのメンテ“力”UPセミナー
2日目終了後、札幌に住むいとこを訪問しようと
南平岸駅から北34条駅に直行。
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駅のすぐ前の「北33西3」の信号  ↓


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このオレンジ色の看板の弁当屋が、いとこの店。
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店の中にも外にも、お弁当のでき上がりを待つ人達がいる。

「夕食時の忙しい時に来てしまった」
と思いながらも
店の中に入ってカメラを構えると
手を止めて出迎えてくれた。
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この近くのマミーズポート助産院で
セミナーをする時は、
たいてい立ち寄っていたが、
久しぶり。2年ぶりくらい? 

少し待つと、お客さんが減り、
奥さん一人に仕事を任せて、
しばらくおしゃべり。



聞けば、この9月で店を辞めて、
次の経営者に店を譲り、
奥さんの実家の近くに引っ越すのだと。

奥さんは疲れ気味で、
自分も60歳になったことだし、
家族のことも考えて、そう決めたそうな。

彼は、私の母の弟の第二子。

私のいとこの中では最年少で、
私より3歳年下。
育った家も、歩いて1分しか離れていない。

スポーツ万能で、
学業成績も私より優秀だったのに、
弁当屋の主になってしまったとは?

中学の軟式野球では、石川県で優勝。
もちろん4番打者。

他府県の甲子園常連校から、
特待生としてスカウトを受けながらも
それを断って、
私と同じ小松高校に進学し、柔道に転向。

インターハイ・国体
日米親善試合にも出場、二段も取得。
パイロットになりたいと言って、
防衛大学校に進学した。

しかし、夏休みに帰って来た後は、
親が嘆こうが怒ろうがテコでも動かず、
防衛大学校を中退。

「気風に馴染めず、勉強も難しく、全てがきつかった…」と。

家の経済状態を考えると、
大学進学できる状態ではなかったが、
翌春、金沢大学の
医学部を受験してみたものの、不合格。

潔く就職し、北海道に配転となった。

28歳の時に退職し
弁当屋を開業したが、イマイチ繁盛せず、

10年前に現在の地に引っ越してきた。

その理由は、弁当の大手のチェーン店が
すぐ近くにあったので、
「その店を1年で潰してやる! そうすれば後は楽」
と、考えたからだと。

1年間、死にもの狂いで働き、
その店を1年で閉店に追い込んだ。

その後、経営は安定したそうだが、
メニューは60種類もある!
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こんなに多かったら、さぞかし大変だろう。
奥さんと二人で、ほとんど休みなし。

お昼前から店を開き、
夜は10時半まで営業、という長時間労働。
しかも、どの弁当も安い。
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この稼ぎで、息子二人を育て、野球を教え、
ブラジルまで試合に連れて行き、大学に行かせ…。

私も忙しい人生を送っているとは思うが、
食べ物商売の忙しさには負ける。

私は嫌や~
高校生までに味わった忙しさで、十二分や。

なのに、食べ物商売の家に育たなかった彼がなぜ、
弁当屋をしようという気になったのか?

今回、話を聞いてやっと少し解った気がした。
それは、私の家が彼の家より
少しばかり余裕があったから?

彼が大学に行くためには
私の父の援助を受けるか、
わずかばかりの田を
売り払わなければならないことが、
耐えられなかったのだそうだ。

お金がないって、ほんまにツライ。
人の一生を大きく変えてしまう。

お金さえあれば、
たくましい働き者の
医者になっていたかも知れないのに。

でも、屈託なく
「これが自分には合っている。
 高校も柔道も防衛大学校も
 親や先生に勧められるままに進んだ。

 自分では何も考えられんかった。
 そやけど、これは自分で決めて進んだ道なんや」

と、笑いながら語る。

10月以後は北海道の田舎に移って、
少しばかり農業をしたりして暮らすとのこと。

「メロンとか、送ってやるわ!」と。

もう二度と会うこともできないかも知れない
このいとこが送ってくれるメロンや野菜を
楽しみに待っつことにしよう。

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