魔女のひとりごと

★ 魔女になろう!

余部鉄橋「空の駅」で100年の歴史を体感

2018-05-03 | 博物館・美術館・建築など
5/3(木)、城崎マリンワールドを出て、
夫が「どこに行こうか?」と言うので
私は「余部(あまるべ)鉄橋!」と即答。

30歳頃に民宿で泊ったことのある柴山や
降り立ったことのない香住を通り過ぎ、余部に到着。



何で?!と思うほどの人人人、車車車で
駐車場は満杯。
15分ほど待ってようやく止められた。

鉄筋コンクリートの新しい橋ができていて
西の方を見ると古い鉄橋の一部が残されている。
                      ↓

                       ↑
    これは昭和61年の脱線転覆事故犠牲者6名の慰霊碑

道の駅「あまるべ」内のテレビモニターでは、
余部鉄橋100年の歴史が見られ、
たくさんの写真も掲示されている。

建設計画・準備は
   ↓




明治44年5月からわずか5ヶ月で組み立てられたと!

「何でこんな辺鄙なところに
 これだけの巨大事業を?!」と言いたいところだが



これがなければ、島根・鳥取⇔京阪神を結ぶのに
大きく迂回しないといけない。



これほどの経済効果をもたらしながら、
地元余部の集落の人々は恩恵を被らなかった。



三方を山で囲まれた陸の孤島余部の人々は、
赤ちゃんをおんぶした母親も、
東隣の鎧駅まで、四つものトンネルを通り抜けて
歩かなければ、汽車に乗れなかった。



度重なる陳情・手紙で
駅は作られることになったが、これまた大変。

小学生までもが浜辺の石を高い山に運んで
駅のホームなどが作られた。



こうして鉄橋完成後、実に47年目の昭和34年、
余部駅ができ、汽車が止まるようになった。



私は23歳の時、城崎から鳥取の友人宅に向かうとき、
余部鉄橋を通ったことがある。

「日本一高い鉄橋」との知識しかなかったが
列車の窓から下を見ると、
まるで海の上を走っているかのようで
その傍らに小さな民家が見え、高さを実感した。



30代前半、夫が運転する小ささな車で
鉄橋の下の道を通ったこともあり、
思い出深い鉄橋である。

日本海の潮がもろに吹き付けるため
サビとの戦いで、多くの塗装工が
軽業師のように働き続け、鉄橋を守った。



昭和61年12月28日、想定外の突風にあおられ、
回送中の特急「みやび」の車両7両が転落。



カニ加工場を直撃し、
女性従業員5人と車掌、6人が亡くなった。



このニュースをでレビで見たときのショックは
今も忘れられない。



その後も老朽化は進行、
強風による運休や列車遅延から
定時運行確保を目指し



平成25年、新橋梁・空の駅・
クリスタルタワー(エレベータ塔)が完成



エレベータを降りると、足元から下が見え
足が震えるほど怖いので見ないことに。



旧路線を西に歩いて行くと
駅舎が昔の面影を残しながら建っている。



カメラを構える人々の影が映っていて面白い。
たぶん向かって左端が私の手。
   ↓

                      ↑
        降りるときは坂道を歩いて高さを体感
           ↓


夫は道の駅で鉄橋の一部をカットして作った文鎮を買っていた。
           ↓


重さにビックリ! 100年の歴史を
ドッシリと思い起こさせてくれる。

これだけの多くの人ということは、
鉄道ファンだけでなく

「高い所から海を眺められてきれいよ~」
といった感覚で訪れている人も多そう。

皆さんにぜひ訪れてほしい思う所である。

ここを訪れて、
「あ~、なんて私は怠け者なんやろ」と思った。

余部をあとにし、車は東に。



ジオパークとして認定された
雄大な海岸線を眺めながら
竹野の民宿に向かった。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿