marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(838回) (その36)②十章 小説家として生き死にする

2021-03-27 10:54:13 | 小説

◆彼は、学生時代からの職業作家として、その考え様をとおして、後年、持ち時間が少なくなったと感じてきたことから、「その方面」に向かう姿勢を考えたことだった。僕が2016年11月30日ブログ(189回)に取り上げたスピノザに傾倒して考えが及んでいる・・・それは、僕がこのブログの主旨でもある。「すべてのしがらみから解放されて・・・」。巷のキリスト教を信じなくても、人が媒介するこの世の場ではなく、あらゆる場に現存するイエス・キリストを信じている人は、多数いるだろうと思う。大江の学生時代の師であった渡辺一夫教授が「敗戦日記」にキリストのことを書いたように。***◆「・・・わたしといえば、それこそ自分の魂の問題をあきらかに憂えなければならないのだった。持ち時間は、事実、少なくなっている! その物理的な切迫感にあわせて、私には小説についてのナラティヴについての、永く持ち越している課題があった。それは小説の書き方の問題だが、しかし、それのみならず、この小説のナラティヴでの魂の問題を語り始めてしまうと、課題の究極の解法には至らないまま表現することになってしまうのではないか?・・・つまり、自分の頭の中でよくつきつめていないままに、小説のナラティヴを始めてしまうことは不可能ではない。永年の小説家としての経験がもたらした人生の習慣は、ついに究極の課題を考えつめることなしに、死をむかさせるのではないか?反面、小説によってしかつきつめぬことがあり、それは小説の機構の力によって、小説家の意識を超えて達成されるものであるとも、私はやはり小説家の人生の習慣から知っているようであったのだが・・・。私は、少なくなった持ち時間の中で、一歩を進めたいと思った。そして、不信仰者としての軽薄を自覚しないのではないが、ともかくスピノザの「神」の定義に、自分をもっとも自由にし、かつさらなる深化を夢みさせるものを感じていた。そこで、この思想家とその研究書を読むだけのために、残りの時間を有効に使いたいと願ったのだった。・・・」***(「私と言う小説家の作り方」10章 <p187>)


世界のベストセラーを読む(837回) (その35)①十章 小説家として生き死にすること

2021-03-26 08:19:23 | 小説

 (再び・・・)表題は彼の書いた最後の章にある表題である。彼が華々しくデビューした時代、僕は学生時代だったから、その作品に大いに引用されている文章が、欧米のそのままに近い内容で、しかも欧米の詩人、作家、思想家というのはその深層には、2000年前に人類の罪を担って十字架で死んだというその男から始まっていると思っていた僕には その引用にとても関心があったのだ。ただ、作品の人の所動に読めなくなったのは述べてきたとおり、性的衝動に露骨に行動を起こさせるのは、知的な思考での表現がいきなり動物的な脳みその衝動的行動を起こすのは、そのギャップに吐き気がしたと書いたとおり。◆軽いところから書けば、「万延元年~」の村で首釣り自殺の人を、子供が棒でつつく場面があるが、これは彼が小説の表現に「異化」を語るが、人の存在の「異界」を思う僕にとっては、これは嘘だろうと(彼は、フィクションでいいとは語っているが)そもそも魂をもつ他人を含む人という生き物が持つ「異界」を無機質の物体に扱うところが、いただけない。それゆえ彼自身には個人的体験として確かに困難が生じた。(作中の)子供にとっての人の死はというものは「異界」に接する非常なる恐怖を感ずるものである。事実、そうである。◆小説を読むには時期がある、と彼は語っているが、まさに人にもまれず、社会的経験も積んでいない若い人にとっては読めるだろうが、学生時代から職業作家として身をたてていかねばならなかった彼にとっては、「魂の問題」が人生の課題になっていたことが、この最後の章に書かれているのである。人が命をもち、魂をもって生きているその追及「その方面」の答えをあからさまに書いていけば、小説は書けなくなるだろうと。◆最後の章の、最後に出てくる引用は、僕が2016年11月30日に掲載したブログ(189回)のスピノザ(写真掲載見られたし)であった。・・・


世界のベストセラーを読む(836回) (その34)キリスト教礼拝で語られた”大江健三郎”の一冊

2021-03-25 20:14:56 | 小説

「大江健三郎の最新のエッセー集『新年のあいさつ』の中に「チャンピオンの定義」という美しい文章があります。著者は、高校一年のころお兄さんから、コンサイス・オックスフォード・ディクショナリーを買ってもらったそうです。大江さんは、夕食に家族が集まる時間になっても、買ってもらった辞書を読みふけったようです。みんなを待たせて、遅れてやって来た弟を、兄さんが執り成して、何か面白い言葉を見つけたかと聞いてくれたそうです。新しい言葉というのでなく、言葉の説明が。そう答える弟に、一つ例を上げて御覧と言う兄。言われてあげたのが「チャンピオン」という言葉の説明だったというのです。「ある人のために代わって戦ったり、ある主義主張のために代わって議論する人。僕はこれまで、チャンピオンという言葉から、大切なことを他の人の代わりにやる役目を思い付いたことはなかった。しかし、この説明に何かしっくりするものを感じる」。それから40年、兄弟はこのことについてその後一言も話しをしたことがなかったようですが、そのお兄さんが亡くなってから、ある人から、電話で知らされた。亡くなる直前、非常識にも癌で死の床についているその兄さんに、来世のこと、魂の救いのことについて気構えができているか尋ねた人がいたというのです。その時、「それは弟に聞いてください。あれが、私のチャンピオンですから」と兄さんは答えたと言います。「代わって戦ってくれる人」を持つ、その意味の深さをきっとあじわったのではないかと思います。ーーー「ある人のため代わって戦う」「大切なことを他の人の代わりにやる役目」ーそういう戦いや努めがあるのです。これは何かしっくりするもの、ほっとするものを感じます。・・・このチャンピオンの定義はキリストが、私たちに代わって戦ってくださった戦いに通じるものがあります。・・・それが主の十字架でした。そして私たちのために勝利してくださったのです。・・・」(「キリストー私たちの勝利者」<コロサイ信徒への手紙> 近藤勝彦:東京神学大学教授、学長歴任、現理事、協力牧師)・・・◆’21年3月末、今はキリスト教歴で受難節、新年度4月4日はイースター(復活祭)になります。


世界のベストセラーを読む(835回) (その33)絶版にしてはならない、井筒俊彦著「意識と本質」

2021-03-24 07:22:03 | 小説

 <(その33)としての余談>(2014年3月第33刷)なので相当読まれのだろうけれど、こいういう内容なものが読まれているのはこの日本は滅びないぞ!と本当に思ってしまう。これはカテゴリー小説ではなく”思想・哲学”になるかと思うが、哲学や宗教に係わる人で言葉で思考、議論しようとされる方の必読の書ではないかと思う。10年ほど前に購入したが、文庫で出版され容易に手にはいるようになったことが嬉しい。全集として当然、そのまま読んでも何やらだろうが、哲学のように前理解としての知識がないと、何のことやらであろうけれど、イスラム教の大家であるし、語学万能のあった方で副題が”精神的東洋を索めて”とあるので、まさに僕が語ってきた”その方面”をストレートに初めに当然のように語っており、その意味合いを言葉で考察していると思われたのである。◆これは、本来、あの批評家も文学や批評をとおして、つまり文字と言葉を求めて、人としての核となるような普遍的な精神性を追求すること、その方向だろうと。大江が(〔A〕6章 引用には力がある)のp107に井筒が訳した『コーラン』を引用していたので、これも気になったところだった。井筒を引用なら、彼の著作の原動力となっている、この『意味と本質』の書いた動機を思わなければならないだろう。それはあの批評家が述べ、僕が”その方面”と書いてきたものでもあると思う。***「経験界で出会うあらゆる事物、あらゆる事象について、その『本質』を捉えようとする、殆ど本能的とでも言っていいような内的性向が人間、誰にでもある。これを本質追求とか本質探求とかいうと、ことごとしくなって、何か特別のことでもあるかのように響くけれど、考えてみれば、われわれの日常的意識の働きそのものが、実は大抵の場合、様々な事物事象の『本質』認知の上に立っているのだ。日常的意識、すなわち感覚、知覚、意志、欲望、思惟などからなるわれわれの表層意識の構造自体の中にそれの最も基本的な部分として組み込まれている。」(「意識と本質Ⅰ」<p8>)***◆それは内面の基軸<G>である。しかし、大江はその内面には向かわず破壊するように思考が外へ向かったと思う。


世界のベストセラーを読む(834回) (その32)ニーチェ:「ツァラトゥストラはかく語りき」

2021-03-22 09:11:12 | 小説

(その32)として余談>・・・◆ニーチェが著した「神は死んだ」「善悪の彼岸」「ツァラトゥストラはかく語りき」etc・・・などを読めば、彼が肉体を賛美したことは、当時のキリスト教を背景にしたものだったことが理解されるはずである。相手にされることがなくても、どうしても書かねばならない動機があり、牧師の息子でもあり、非常に優秀で若くして大学教授までなって、当時の社会に大いに悩みを抱えていた時代背景に最後は狂ってしまうのだが、我らは今でも普遍的にも感動的な啓示をうけるのは、僕にしてみれば、その表現の「異化」よりも「人が霊を持つという異界」に触れていたからであろうと思う。その苦悩を思えば、彼が悩み、神の言葉を引き下ろし満足する人と言う生き物は何なのか?観念的に救済の空論として上ばかり見ている人という生き物は何様なのか?彼は大いに悩んだ。”神は死んだ”のだ、と。この地上の肉体に試練の中にも我々が力強く生き、権力志向、超人を求めたのは故の無いことでは決してなかった。これに近いことをにおわせているのは大江も〔A〕(四章 詩人たちに導かれて<p77>)にも書いていることでもある。◆こういう時代背景とニーチェの苦悩を知り、若いころに見た映画、アサー・C・クラークの”2001年宇宙の旅”に出てくるモノリス(時間の壁であろうと思われる)が現れるバックミュージックのR・シュトラウスのツァラトゥストラをyoutubeでも聞いてみて欲しい。サラウンドなどお持ちの方は、大音量で聞いて欲しい。歳をとった僕などは涙腺が緩んでしかたがない。批評家小林秀雄が言っている危険とは、そういう背景は表面的なつまみ食い的な読みからは決してその深層に触れることができない、と言っているのである。