marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その13-③)完全にボケる前に、自分の言葉で聖書を読み続けてみよう(序論)!

2025-01-24 12:13:14 | 日記

 

**********

ところで、先に『自分の言葉で聖書を読んでみよう』などと、かなり上から目線で書いてしまったけれど、そのまま書き続けるには無責任に思われ、自分の見解をのべたいと思う。すべての人に読んでもらいたいと思っていますので。知識としてのみ読むの出れば、そこに留まるだけでは意欲がでてきませんね。ここに異邦人の大きなハードルがありますが。

でも、2025年の今、紀元前から争い、ガザとイスラエルの4万7千人以上もなくなったと言われるその戦争を世界の人々は知らないことではない事態について、「わたしは、生きて働き、歴史を動かしているものである、人類よ知りなさい」との現象事態であると神がのたまわっているとするなら、これは感心を持たざるを得ない。

旧約聖書(ユダヤ人にとっては聖書)には、「わたしはイスラエルの神である」とはっきり書かれている。とすれば、世界の人が知りうるこの大変な事態は何のことなのだろうか? 終末に近づくにつれ、イスラエルという国はとんでもない国だ、潰してしまえとそういう兆候もあることも預言されている。

**********

今まで目で見えず、聞いたことがないこと(これは歴史の流れでのイエスがキリストであり、その死と復活のこと)・・・使徒がいうならなおさらのこと。しかし、命ある僕らに、また全人類にとっても重要なことであるとされ、必死に命までかけて世界に広めようとした人々がいたのは、それが真理と言われ普通には分からないところが魅力でもあるけれど、おそらく命に関することであろうことを誰でもが内心畏れを感じるので、求めつつも、あぁ、それはどこかの宗教のことかと嫌煙するのであろうなぁ。

**********

江戸時代末期まで、逃げて来た人々の処刑場がこの近辺にもあるし、その歴史を無視するわけにはいかない。で、この地の殿様の城が調査された時、その本丸あたりで婦人か女官かが信者になっていたのだろ、聖母マリアの小さな像があのルルドの泉のマリア像のミニチュア版であったことには、驚いた。

**********

僕ら異邦人にとっては、『なぜ?』と思う気持ちが大切です。例えば、マリアはイエスの誕生は天使ガブリエルからのお告げによって、何のことだろうと思いめぐらした、とあるし、また、異邦人エチオピア人がエルサレム参詣の帰路時、途中神に導かれたピリポに出会い、読んでいたイザヤ書の意味がわからず、解き明かす人がいなければ誰が分かりましょうと、ピリポに尋ねて、それはイエス・キリストのことだと教えられ、信じて洗礼を受けたとある(使徒言行録)こと。

つまり、こういう信心のことは、外からではなくその本人の内からの促しによらなければ(それは、聖霊が語るということなのであろうけれど)、知識としては詰め込んでも信仰には結びつかないと言う事なのでしょう。

こういう、時間をかけ思考する人、できる人、その知りたいと願う気持ちが大切だということだろう。(ところで僕には宗教抜きにも哲学的にこの目に見えない思索のこと・・・これがフッサールの現象学が教えていることだとも思えるのです。)

**********

第一に聖母と言われるマリアは、そういう思索をおこなう人であった。天使ガブリエルから御告を受けたとき、「何のことだろう、わたしはまだ男の人を知りませんのに・・・」と。

神は知らせたいと思われた人には試練をもあたえられるのだろう。人生をとおして。苦難を通してまでも求めをおこさせる。その時は分からなくとも繋がっていれば、その思いを・・・彼女は語り続ける。

**********

今も困っているときそういう体験をした聖母マリアが私に現れて悟りの言葉を与えてくださる。・・・「レットイットビー」<お言葉どおりになりますように!>と。

読んだ知識においても、何のことやらを考えること、聖書からその答えを見出してみようとさらに探してみること。天地創造からの通奏低音のようにつながっている歴史性の流れの中に今、この時を含めその意味があると気づいてくれば、信仰の意味が理解されてくるように思われること。

そして、永遠の命に導かれんと、神はわたしを捉えてくださった。いつでも誰にでも、その思いはおこるだろう。命を与えている天地創造の神は今も我らに語り続けている、と。・・・

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿