marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(869回)  不思議なこの国の物語②文字を駆使し残す者は歴史を制覇するか

2021-05-30 08:44:30 | 小説

◆北海道・北東北縄文遺跡群がユネスコの世界文化遺産に登録されれば、日本の古代史の見方が変わってくると期待する者です。それは、今までの学ぶ多くの古代の歴史の多くは近畿、関西以西のものが殆どでしたら。これでは、本当の僕らの心のルーツが解明できないと長い間、考えていたからです。様々な疑問が、僕なりに思考の底辺の中で繋がって来て答えが出てきたように思われるからです。

◆梅原猛という哲学者がおられたでしょう。彼が、だいぶ昔「縄文に帰れろう」と文芸界で言われた時、キリスト教神学者のO先生が梅原を批判されていたのですね。僕が、ご自宅にお邪魔したとき、ご高齢になられておりましたが、常に日常でも誰が何時、来られてもきちんと対応するためか、ワイシャツとブレザーを着ておられましたね。お部屋には、当時の名を馳せていたカール・バルトとエミール・ブルンナーの論争時の二人が向かい合った写真が飾られていました。カトリックのパウロ・ヨハネが日本に来られた時のO先生との対面の時の写真もありました。何分にもキリスト者は伝道も第一の使命ですか、過去の日本に帰るなどということはとんでもないことだと思われていたのだと思います。しかし、僕はそれは、心の中で違うのではないかと思っていました。

◆どこの国の学者も過去の文献にその思考の基を基盤にしなければ、それは正式の学問にはならないのだということが、すでに限界があるのだと思うのです。何故かというと、過去の学者さんのまとめられた学術書も、すでに当時の偉人達の思考の結果系の一端しか書き表すことしか出来ていないわけですから、特に歴史はどこまでいってもすべてを書き尽くすことなどできない訳です。理系は別ですよ。のちのち物的検証ができますからね、それを元にさらにステップアップして行くので。ですから、人の思惑ではなくて、それはあるときは情念と呼ばれるし、僕は動物として生き、思考にまとわりつく”しがらみ”とよんでいるもの、それを取り除いて思考しなければいけないと思っているのです。


世界のベストセラーを読む(868回) 不思議なこの国の物語①:嬉しい北海道・北東北縄文遺跡群世界遺産登録

2021-05-28 06:52:32 | 小説

◆北海道・北東北縄文遺跡群が、世界遺産登録にあげられたニュースは、とても嬉しい。文字になっていないこの国の歴史を考える上でとても大切な出発点になっていくと僕は考えているからだ。この日本の北の地は、蝦夷地と呼ばれ、この日本の歴史においても蚊帳の外だった。天孫族において、鬼門の方角はいつも東北であったから。それは、実は対立ではなく、この国の統一の為に必要を求めた人々がいたからである。(外国という他者と防衛のための自国のアイデンティティーを持とうとする時代経過の中で)理想の国を作ろうと目指して東の太陽を目指して渡来した実に多くの古代にこの国に渡来した人々。彼らはこの国に同化して多大な自国をつくろうと着手貢献した。無論、多くの争いを経ながら・・・。けれど、殆どこの人達の多くの歴史は言葉しては残されなかった。とくにこの北の地は。言葉を文字として残すには、その文字のインフラが無ければ周知されない。必要なかったからである。それほど、穏やかな時代がこの縄文時代には流れていたと僕は思う。その期間は一万年であった。

◆ほんのひと瞬きの歴史において、少なくとも僕が学んだころの日本の古代の歴史は、紀元前は半裸の原始人のような、山や野原、海や川で狩猟生活をするイメージだった。今は、博物館でもそれらは展示はされていない。僕ら人間は、たった2000年前からあの「2001年宇宙の旅」の映画のような、古代の猿が、道具を使い始め動物の骨を空に放り投げて、それは一瞬、宇宙船に変わるあの場面、そして時間の壁と思われる黒い大きな壁”モノリス”が現れる。宇宙船の飛ぶ空間にY/シュトラウスの”美しき青きドナウ”と、R/シュトラウスの”ツァラトゥーストラはかく語りき”のイントロのBGMは僕に強烈な印象を与えた。そんな急激に飛躍する短い時間の中で人とはいったい何なのだ!そして、僕が生まれて生きるということはどういう意味があるんだ、と暗く考えるようになってしまった。中学の頃である。・・・不思議なこの国の物語FKKMの始まり。


世界のベストセラーを読む(867回) ”異界” から声が聞こえてきて仕方が無い。

2021-05-27 19:57:58 | 小説

◆部屋はランダムに散らかっている、それで、片付けながら頭を整理する。それで、また、あれこれやりながら結局、気がつくと散らかっている。しかし、結果系では、その散らかりようを気にせずに思いをあれこれ楽しんでもいる。部屋には本、これは歳をとってから、読めばボケ防止にいいだろうと、それなりに人生経験も踏んでいるから、小難しい本もある。ライフワークとしての”思考”、つまり、何をなそうが結局、脳みそが満足してくれれば楽しみを感じてくれるだろうと、その思考だと僕は思ったが、経験を経なければ読み切れない本も沢山ある。経験を経なければ答えはでないかもしれないという内容のもの。だから、まだ読みたい本が沢山ある。経験を経て、読まなくてもいいという本も出てくる。

◆それならば、てっとりばやく日々の業をなすというか、ささやかなこともそれはよく死ぬための修行だと思えば、それは日常の生活を淡々と過ごしていく事の中に、人の生の意味合いもあると改めて思うことだ。ささやかな、自分を見る目の次元をあげて今一度、人は何で生きるのかなどと庭の木々、その葉の緑、花の色とりどりの揺らぎを見てコーヒーを飲みながら考える。答えは出さない。深く触れることによって、そういう究極のものというものが、物理の世界だけでなく、人が生きる上でもそんなに多くはなく通奏低音のように奥深く流れ一つだけだと思うようになった。何故、そんなことを思うようになったのか。とてつもなく長い地球の歴史の中で人が生まれ、月まで行くようになったのは、ほんの人で言えばひとまばたきにすぎない。

◆僕に、いつも背後から(左背中の後ろから)帰ってこいという声が聞こえてくるのだ・・・。聖書主義、あのマルチン・ルターは「永遠の命について書かれた書物は世界にこの本しかないのです」と地上のすべての人々に声をあげたのである。


世界のベストセラーを読む(838回) (その3)1年前A・カミュの「ペスト」を紹介していた

2021-04-22 06:50:16 | 小説
 
世界のベストセラーを読む(649回) "20年4月9日今日は洗足木曜日! カミュ小説「ペスト」から

◆長くなりそうなので647回に記載の退任牧師からの講演資料の紹介は来週以降と致します。今回、採用も多く文字も小さめ・・・。 コロナが騒がれる以前から僕がブログで紹介してきたカミ......
 

◆普段の感受性というか、後退する人類の命に挑戦してくる新型コロナウィルスの猛威を僕は、数年前に流行した”サーズ”と違い、なぜかとてもまずいと感じたのである。サーズの時にあったマスクの貯え?も残っていたが、その時は全然無関心であったけれど、今回は明らかに人為的な操作があって違うなと恐ろしく感じたのだ。それで、当時、マスク不足などと言われていないときに、すぐにマスクを9000円分買い込んで(それは、大人、子供用)東京にいる子供に送ったのである。なんだこれはと思っただろうな。その時は、それほどマスク、マスクと騒がれはいなかったのだから。◆それは僕にはそう感じただけなのだし、それ以前からブログにも書いていたのだ。人の体のつくりやはたらきは、僕が興味をもつ分野なのだが、それの中には、さらなる霊的次元のことも感じ始めていたのである。それは、こう新約聖書のパウロの手紙にあるのだ。キリストが我らの肉体にまとわりつくすべての罪を背負い十字架に架かられたからには、「我らの戦いはもう血肉と戦うのではない、支配と権威、闇の世界の支配者、もろもろの悪の諸霊と戦うのである」と。◆紹介したタルーの最後の言葉を覚えていて欲しい。過去に紹介した、そしてまた、書こうと思う哲学者スピノザに繋がっていると僕は思っているのである。”しがらみ”からの解放に向けて・・・。

 


世界のベストセラーを読む(834回) 『その方面』とは、どの方面なのか:”魂の<G>”

2021-03-28 18:08:26 | 小説

◆難しいような事が書いてあるような思想書でも、例えば、先に引用した井筒俊彦の「意味と本質」の紹介に、「人と言う生き物は、誰でも『本質』を求めようとする内的性向が誰にでもある」とか、ライフワークに「本居宣長」をしたためた批評家小林秀雄が、「文科の学生へ」と紹介した中の「日常の深く道徳の中に隠れている・・・」というような”人の生きるべく究極の深層の基軸を求めることを意味するであろう言葉”などはいずれも、その個々人の思考の基盤となる動かぬ自己というようなもの(僕はその基軸これを<G>と読んでいる)が無ければ思考対象として観念的なことは言葉では捉えきれないものだということを意味していると僕は読み取る。◆しかし詰まるところ、これは自分が他人の言葉の上に載り、なんとなくそれで他人の言葉の上で生活していいというものではなく、これ(自分を信じて生き、死にを語るという次元の話)は、簡単なようで実は、難しいのではなかろうか。けれど、小林に言わせれば「自分を信じれなくてどうしてものが言えるんだ」という常に、一度、自己の思考の深層に落とし込み、動かぬそこから評論を始める訓練ができている人は、簡単な言葉で処理されてもしまうことなのだ。◆地上に一度きりしかない人生に対して、神学者は「自分」と「自己」とは、などと区分して考察するが、そもそもの”わたしの軸”とはどこにあるのだろうかという考察なども語られるが、それは誰にもあてはまり、実は本来難しくはなく、それは”ただひとつ”なのだということを世界のベストセラーは語っているのである。◆「種を蒔く人」の例えがある。「だれでも御国のことばを聞いて悟らなければいけなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。・・・石ころだらけのところに蒔かれたものとは、み言葉を訊いて喜んですぐ受け入れるが、自分には根がないので、しばらく続いてもみ言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐつまずいてしまう人である。・・・」(マタイ13:20-21)「自分にある根」とは・・・それが”求める方面”であり、その根を僕は”魂の<G>”と呼んでいるのだ。