ヒントは、まずその人が、考え、求める気持ちがあること。これが第一であると。それで、分からずとも、それが故に何の事だと考える力を持っていること。どこまでも求めれば、必ず何故の教えなのかぐらいは察するかもしれないから。
聖書は、無味乾燥のようで、何重にも入れ子のようなっていたりする。第一、パソコンがない時代、何百年も経過した話が再び湧き上がってその答えが書かれているなどということがある。・・・まずは異邦人でないということはどういうことかを、考えて見る。使徒達は如何に同胞に、未信者に宣教したか。これは、実に天地創世以来の預言の実現とみた(聖霊に教えられたというべきか)彼らは必死だった。
第一に、異邦人ではない同胞らは自分自身の先祖代々言われてきた神のコトバを信じる者ではないか、彼らは選民族であり、自分たちの神が導かれた歴史上に、その進展にイエス(基督)を誕生させたのだから。何にもまして彼らは信じ、救われるべきであろうと、使徒らは思っていたのだが。
この為の宣教が第一であった。・・・しかし、生きて働き、実際に旧約に預言されていたにも関わらず、あまりに律法に縛られていた彼らは信じなかった。
旧約聖書(彼らにとっては『聖書』)のあらすじを滔々と述べて、しかし結局ユダヤ人達には理解されず、殉教したステパノの話が旧約聖書の要点のあらすじです。
使徒言行録 第7章 是非、お読みくださることをお薦めします。
遠い国のどこぞの国の宗教物語というのではなく、これが今の私達のも関わってきている話なのです。・・・
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