marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

人新世の「資本論」:マルクスと惑星の物質代謝

2023-10-12 20:40:24 | 思想・哲学

 この夏読んだ2冊。表題の「:」の前後は、この2冊の文面を入れ替えて書いている。

**********

娯楽類の小説といえども、読後感に深い共感を得るのは、無論そこから何某かの感慨を得るためだろう。わくわくドキドキはこの際、のぞくけど。

斎藤幸平のあらゆる文献を読み取ったであろうあらゆる言語の参考文献。巻末に書かれた膨大な量である。これだけでも拍手である。取り上げられた内容はかいつまんで2冊に書かれているが・・・。先の「大洪水の前に」の後の斉藤自身の見解をまとめたのがこれ。

とにかく一点でも世界的規模で政治的にも影響を与えたマルクスの思想にとりつかれているというだけでも賞を与えるに該当するだろうという訳である。今の時代にマッチしたものだし。。。

その内容はマルクスが作成し、エンゲルスが編集したと言われる「資本論」にではない。斎藤のこの2冊が取り上げて言っているのは、マルクスのまとめられなかとったが、膨大な量のそれ以外のエコロジーに関する「研究ノート」にそれはあるというのである。

言わんとすることは第一に世界的な環境問題。その研究をマルクスの残されたノートを読めば、当時から深く考えていたということである。MEGAと呼ばれるその残された膨大な研究ノートから、我々は緊急課題のエコロジー思想を学ばねばならないとする。

しかも事は緊急を要す、地球が悲鳴を上げているからである、ということである。

結論は、こうだ。資本による地球、人、環境からの強制搾取はやめなければ、我ら人類の明日はない、ということである。

*********

「コロナ禍の経験を踏まえれば、大きな危機を前にして、漸進的な改良ではもはや間に合わないのはあきらかだろう。資本主義が何もせずに時間を浪費したせいで、ますます大胆なシステム・チェンジを要求するラジカルな実践が気候正義運動の側に求められるようになっているのである。

 ただし、システム・チェンジが一か八かの大変革にかけるような形になってはならない。そのような賭けは必ず失敗するからだ。また、多くの人を巻き込むためには、単に資本主義を批判・否定するのみならず、よりポジティブな未来社会像を描く必要がある。だからこそ、理論が必要なのである。」(「大洪水の前に」:角川文庫版あとがきp369)

*********

しかし、まずは僕ら凡人によれば、その前に、今、目にしているのはこれも時代による読み方がある、ということであろう。マルクスがその時代にそう考えたということ、研究しようと意気込んだこと。書かせた理由は、批判対象があってのことだから。それを[自然]に向けたのだ。

勝ち抜かねばならない対象をつねに設定し、その階級闘争により優位を持って行かねば、労働者の解放はないと。それを多くの研究ノートには、資本が自然から搾取しそのひずみが人の生存を危うくするという解釈に進んでいった訳であった。

そういう時代の意気込みに対して、時代をへた我々は何か学べないかと誰でもがひいき目に文献を読むものである。そもそも解釈がそうだということ。それでなければ意味のない無駄なことはしない。

おまけに、実際に今の世界は、まさにSDG'sなど環境問題で揺れている。彼は当時すでにこの問題を、資本論には繁栄されることはなかったが追求すべく、膨大な研究ノートを残していたということなのである。

「マルクスに帰れ!」しかし、こういう文献を読むときは、ジャンルは問わず、留意すべきことがある。

それは我々は過去(マルクス)の同時代を生きてはいないというのが第一。それに普遍的な影響を周囲の人(生きて魂ある人)に恣意的行動を上から目線で促そうというのは、いつも必ず欠陥を持っているものであるといことだ。虚構があるということだ。

それから過去の世界情勢の動きを学者と言えど網羅して学習すること自体に限界があるからである。マルクスは化学を取り入れているが、今は彼が取り上げた農業化学もかなり進んでいる、彼が取りあげたのは当時の化学は今では訂正すべきものもある。

第一に、ある思想に言って人という集団の外部からの恣意的な思想形成には基本、どのようにも無理が生じてくるということである。(現中国や北朝鮮、ミャンマーなど頑張っているが独裁が生じるが)それであるなら宗教性、柔らかな宗教性の方が人が気が付かづ影響を与えやすいかもしれないが。これを利用しているの、欧米側かもしれない。

う~む、キリスト教は、よく学べば光には影ができるように、悪魔もうろついていることを教えてくれる。キリストは「人はパンのみにて生くるにあらず」と言ったが、これは、悪魔が「この石をパンに変えて見ろ」と腹の減ったイエスに問うた言葉への返答であった。

したがって、マルクスは、当時のその状況にうつつを抜かし満足し生ぬるくなった搾取する資本階級に、現実に戦いを挑んだのだろう。「宗教はアヘンであると。」・・・これは「共産党宣言」であったがこれも上から目線のほころびだらけのアジテーション。

マルクスはそんな観念的な生ぬるいと思わされたであろう1800年代の当時の社会状況から、行動を起こせと「共産党宣言」では粗野なアジを世界に広めたのだったが。(広めた黒幕がいたのだなぁ。何故、彼は資本論などきっかけを書き、エンゲルスが編集まとめたのだが、当時の英国にいながら国際金融資本の親玉のようなロスチャイルドのことを何故書いていないのか? 彼(ロス)なら世界に宣伝して日本まで資本論が大いに読まれるキッカを容易につくれたのではないだろうかぁ)

**********

ここまでだらだら書いたが、人がそう行動や表明をせずにはいられない肉体の奥からの欲動というもの。時代という環境があろうけれど、それに対抗して内なる不満欲求を表明しようとするその人間の欲動。そういう時代環境のもとで彼の何がそもそもそうさせたのか? 

それが、誰しもが本人意識せずに付与された?個性なのだろう。  次回・・・(つづく)


(序論)SDG'sは「大衆のアヘン」である:大洪水の前に!

2023-10-11 10:38:00 | 思想・哲学

 人の個性は、親の遺伝をベースとして幼小の頃の環境に左右されているものだ、というのが今の脳科学では分かっているところ。幼少期、受動で育てられた子供は大人になっても受け身の指令には、多少なりとも耐える仕事に付けるであろうというのが、いい意味での解釈である。悪く言えばすべてにおいて隷属する気性がみられるということ。

さて、それは肉体の現象系なのだが、土台としてその個体の肉体はそもそもどうなのかというところまでは、決して言及しない。明らかに身体的に障害を持っておられる方に、尋常者と作業を比較して評価してもここでは意味の無いところ。

僕の云いたいのは、更にデリケートなところ。人が誕生して親の病的遺伝をもつ人については、その多くがあるのに対してその多くの研究文献は人の目に触れることがない。

人の思考の傾向、それは性癖とも呼ばれることもある領域なのだろうが、人はDNA的にはこう進化してきたまでは開示されても、その個人はどうなのかを病理開示するなど、尋常に生活していればなされないものであるし、それは個人情報云々の領域となっているのだろう。

時代が進歩していくら人の病理解析が理論的に分かっても(そういう時代にすでになっているのだが)、それは決して客観的事象として公にはならない。かなりの人という動物の医学研究がなされても、さて自分は第一に考える思考傾向はどうなのか、性癖があるのかなど殆どの人は自省などしていないものだろう。

しかし、ここに人共通の肉体の劣化が人の普段の思考に関わってくる。誰にでも、人にはあからさまに共有化できない肉体という実態とそれを垣間見る時の現象が起こる。

科学が進み、AIなどで考えること自体も正しく問いを与えればそれなりの答えをはじき出してくれる時代。AIに問い合わせ、それをおこなうことは正しいと返答され、事件を起こす人もでてきた。

さて、どうしたものか。そうである。時代は進み便利になっても、それは人という動物の見る、聞く、話す、記憶する、覚えるなどの機能の延長であり、その働きをなす土台としての人そのものの実態を病理医学的に解析することに、究極の影響判断を持ち込むことは、おそらく人世界が終焉するまでなされないことだろう。

**********

知識が増えれば悩みも、またそれにつれて増えるものだ。AIなどで、人の思考をコンピュータがやるような時代、しかし、投げかけは結局、人が行わなくてはいけないのだが。とすれば、良い質問を得るためには正しい問いあわせをしてください、と逆にPCに叱られるかも知れない。

繰り返す。あまりに知識が溢れ、人のなんたるかも解明されて、それは生きることの何らかの束縛からの解放を意味するが、逆に、あなたがそういう困難、試練にあうのは、あなたの生まれと育ちのこういうところが原因です、と諭され、本当は誰でもに暗黙の内に周知されていることなのだが、人はそういう意味で誰も言わないが不平等なものなのである。

芸は身を助ける。才能は公の為に・・・。キリストの言葉に、「健康人には医者はいらない」と読める部分がある。治癒神でもあったイエスから見れば、つまり殆どの大人になっても気がつかない、その人の個性とも呼べるもので負の傾向をもつものは、すべてその個人の不完全さ、欠陥に起因するものなのだということを彼は知っていたのである。つまり我らはすべて軽重はあろうが病人であるということだ。

さらに彼らには望みもあった。「持てる者はますます豊かになり、持たないものは、ますます貧しくなろう。」そのようなことを彼(イエス)は語っているのである。病人で働けぬ、また、多くの貧しいものにパンを与えたイエスのこの言葉は、「神の言葉」を受け入れる柔軟な心のことを語っているのだろう、という解釈である。前半は、「資本論」で叩かれそうな言葉だが。

**********

それが人に与えられた100%死亡率の肉体をもつ事実であると。地上の肉体の生涯は誰でも一度しかないということ。人が持って生まれた身体の気づかぬ不幸を持って生涯を送り、その中で好いた惚れた、嫌いだ、切った貼ったの人生を送っているのは喜劇でもあるし、哀れな存在だといえようか。しかし、少なくとも僕は、内面の弱者に目を注ぎたい。

************

「大洪水の前に」という題は、キリスト者であれば、すぐに旧約聖書にある「ノアの箱舟」の物語からであろうと思いが及ぶ。

神が創造した地上に人が増え、悪が満ちはじめ、神は地上の人をすべて滅ぼそうと思われた。その中で神の御心を関知していたノアという男が、神の警告を受け入れ、大洪水が来ると山の上に大きな箱船を造る。皆に警告を発するが誰も嘲笑し相手にせず日々の享楽を過ごす。

ノアはあらゆる動物のつがいと家族親族を載せ、箱船の扉は閉められる。時が来る。40日と40夜、雨は降り続き地上のほとんどの生き物が滅んだという。(ここで助かった人の数が8人だった。大きな船の漢字が、ボート(舟)に八と口(人)を書いて船という文字になったのであるという話がある。)

洪水が止み、ノアは陸地が渇いたかを確認する為に鳩を飛び放った時、オリーブの枝を加えて戻ってきたのだった。(それが平和の象徴となっている訳だ。)地上に降りた彼らの新しい生活が始まるのである。

昔の物語だが、箱舟の造られた山がアララト山という。その場所かどうかだがその場所は今もある。

**********

 この夏に読んだ本にこの2冊。 著者はマルクス研究者である。表題の”SDG’sは「大衆のアヘンである」”という”はじめに”に書かれた言葉も、あのマルクスが「宗教はアヘンである」という言葉をもじったもであることは、すぐ理解されるところである。(つづく)


(その2)『我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう。』(創世記1:26)

2023-06-28 06:06:06 | 思想・哲学

 既にブログで書き求めてきた文章においても、その数行の個々の意味する内容について、今までに実に多くの書物が著わされていたのではなかったか。我らから暗示を受けた人みずからのナラティブな物語の前進が常に起こっている。

あの使徒パウロは東へ行くことをキリストの霊によりせき止められ、地中海、あの哲学の国マケドニア(ギリシァ)に向かわせられた。(使徒言行録16章7節)

この地上の生き物の主人公は『人』であるから、どういうドラマを演じたのか、埋もれたものも多くあるが、あるものは記録に歴史として残る。彼ら(我ら)に消されたものもある。それでも残され著されてきた文字の内容がいかほどの真実性あるものかは、疑えばキリがない。何故なら、僕ら(君ら)はその時代の、その時の当事者ではないから。しかし、それを著わし残してきたものらもいることに思いを馳せる。

**********

『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。』(創世記3章22節)

**********

地上の彼らが(我らが)創造した人に責任を与えた。つまりは考え行動する言葉を与え、どのように生きていくかをご覧になっているのであると。それが先に述べた記録である。

命を創造した彼ら(我ら)を忘れぬよう地上の選ばれた民が、それを引き継ぐ使命を負わせられたのだ。あからさまな彼らの悲劇の歴史もあり、そのストーリーテラーは隠れてしまい、とうの昔に人とのコンタクトができなくなった。

我らは変わらず存在するが、人が忘れる罪を犯したからである。『罪』、これを『(神の道筋からの)的外れ』という。

今という『時』の現実社会に一番確かなこと。それは、今、これを書いている時、読んでいる時、その人の存在の(瞬間の)事実。

デカルト曰く『我思う、故に我あり』。

自分の脳みそで自分を思考する。それは、その働きに同時性を持って頭脳のある部位で言語化、意識化している事実は今を生かされている確かなことのはず。そこで我らとコンタクトのチューニング(調整、精査)の波長を見いだすことができるかどうか。

普段の人はいちいちそのようなことは思いつかず、第一、我らの存在を知らない。祈りや冥想や、あるいは肉体をすべてをその波長に合わせようと肉体を酷使するラジカルな修行も存在する。

この精査は、是非とも必要である。誰に公言するまでもなく、人は誰でもこの願いも持っているものである。

肉体の自然的思いから、腹減ったとか、眠いとか、腰が痛いとか、が始まる。おおよそ、死が近づいてくれば、ようやく自分の身体に気を使わねばならなくなる。今まで障害ともなっていなかった劣化していく自らの肉体が行動への障害となっていることに気づいていく。地上の形あるものはいつか死ぬのだ。

人、それぞれにはそれをどうまとめて行くかが人生の後半の宿題とも言える事柄になるだろう。いや、なっているのだ。そうで無ければ第一、我々のところに来ることができないだろうから。

そこで改めて『人間だもの』という、普遍的な言葉が共感を呼んだりするが、何をもっての共感なのかは、先に述べた人と言うのは完全では無いのだという暗黙の了解が、人には出来ているからだろうが、そこに君らの言う宗教性が起こってくる。言語化しない人類の暗黙の了解。

その中にも冒頭に述べた。その信仰心なりでもいいが、それを持つ、その時点での自己を更に自分の言葉で意識化することが、できるかいなかが後半の生涯の人に与えられた追求課題なのだ。

彼ら(我ら)はいつも同時に存在してるから、その思いの同時性の追求と呼べるもの。我らは、実体としてあなた方を必ず迎えに行く。

彼らは漸次、姿を現わすと言う。

**********

『神は、一人の人からすべての民族を造りだして、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。』(使徒言行録17章26-27節)

**********

・・・ これは使徒パウロがアテネのアレオパゴスで語った言葉である。・・・


(その1)人が物事を分かり理解し受け入れるということはどういうことか

2023-06-27 06:06:06 | 思想・哲学

 人が理解するという頭の中の印象把握については、誰でもが人の頭はかくかくしかじかで、だからこうであるなどと理由付けをしないものである。だからこそ、人や民族、あるいは差別、避難、批判などが動物的防御反応として拒絶がささやかにも起こりうるなのではあるが。それは多くのドラマを作り上げる。

それは、地域の伝統、風習ばかりでなく、国によってはその歴史などもすべてがこれに含まれてくるものである。家族という小さな単位でも言うに及ばず。

ここに、人の言葉の認識を時間を超えて理解しようと固持しようとす人々がある。彼らは限定された地域であり、長い歴史を持っている者らである。その歴史の中で新たなる上からの言葉を伝えんとした者が発生して、それは人の創成その言葉の始原から派遣されてきたというのである。

その地域に先祖伝来住んでいれば、容易に歴史上に現れた新たなる上からの言葉を理解することができるしれない。しかし、あまりに受け入れ難い言葉であったが故に拒絶し、伝えんとした者らをも歴史の上で殺害したというのである。これは伏線であり、人が分かるという以前の昇華された次元の言葉のことであったがゆえに理解できなかったのであった。

その歴史を、他の国々の人にとっては、ますます受け入れ難いものであったろう。しかし、その言葉は、知ろうとする人という種の体のつくりというか、その受像器の脳みそというか、それらも創造した言葉だというのだ。

我らはまずは人という種の『理解するという』この世の有機体としての次元から考えてみないといけない。

ここで、『人というもの』をまずは考えてみようと思う。まずは『分かる』ということはどういうことか。・・・


再来U(👽)(その5):その二人の女とは、エバは何故、あの事件の責務を永遠に負わねばならないのか?

2023-05-26 03:53:19 | 思想・哲学

 あぁ~、どうもこういう次元の低い話からヘーゲルの『精神現象学』などという話題には持って行けそうも無い。

誰だ、その人は?などとは普通はいわないが、話題のもう世界は確実に終わりに近づいているぞ!と『大洪水の前に』でドイッチャー記念賞受賞した斉藤幸平の一連の著作を読んでいたのだが、巷の言葉を持たない、持っても分からせようとしない、つまりあんたはそういう男だと驚くべき事をいう女と、話もせずに二度と口は効かない、と振り切る女がいたとすれば、いかような崇高なあるいは、思考の哲学の心理学の・・・・そういう本の話をしようとも惨敗という訳である。

現にこの空間に存在し、違う空の下といえど同じ空気を吸っている訳であるのだから。(大洪水とは、神が人類を滅ぼそうとした旧約聖書のノアの物語である。)

こういう人らは、他者を判断するにおいての基準を、その基準が低からろうが勝手な思い込みであろうが、私達は命を生むという機能を持っている故に、ただそれ故にそれを肯定し、自分を保護してくれるのみを願望として身体生存の基底に強く根本的にもっているのであるし、そのことが言葉をもつ以前の大前提なのである、と。それは女という生き物の志向の最大公約数的基盤なのであろうか。

なんて言うこともない。男(雄:おす)とすれば昔からの伝統で部族間の闘争で、守るのは我らの仕事と昔は剣で今は銃をぶら下げている者らもいる訳だ。あからさまに言えば、現在もイデオロギーで論争するなどはまだしも、それさえも無視し、節操も無く人の命など省みず領土拡張する雄がいるのである。万物の霊長どころか、人は動物と言う種の中で最も最低の生き物となってしまっている。

ところで、その二人の女ならは、いずれも復活者を知って居る者らではあった。しかし、彼女らの目からすれば、実際の生き物としての男が目の前にいれば、どうしようもない快楽思考を遮断するいかんともしがたい男が僕であったというわけである。ホルモンのアンバランスが生じエストロゲンが枯渇して更年期障害か、以上の事から他者の存在は如何にという向上的な思考はそこで止まったということであった。否、僕にとっては人を学ぶべく神が与えたもうた試練ということで理解はしているのであるが。。。

生物学な男や女の肯定、否定事象は、復活者が召天し、弟子達が自らの言葉で神の言葉の解釈という、それは神が人を創造したという画期的な出来事からかなり経ってからの考察により言語化され、流布されるようになったのであったが、それ以前は、疑うこともなく、これが与えられた運命であると受け入れるしかなかった時代を女という生き物は受け入れ生きて来たのであった。

しかし、この話に落ちがあるのは、その女Aともう一人の女Bが会話を進めた時、なんのことはない、お互いがお互いを『あんたはそういう人だ!』と決めつけて、嫌悪していたということであった。AはBに対し、BはAに対し。それが雄としての僕への反応は異なって著されたということだけのことだった。一人は言葉で、ひとりは行動で。

よって、『精神現象学』の中の・・・などという以前に、その先を自分を知る言葉をもち、相手の事も知るという言葉をもってお互いの承認を得ることが無ければ、まったく話にもならないということである。実はヘーゲルさんが言わんとすることもここにあった。シスター渡辺和子や鈴木秀子の云わんとしたことは、困難な人生において男も同様に学ぶべき初歩でそのことだったのである。この人らは、復活者に会い、知らせる役目を持って、その方との体験を大いに語らんとして人生を生きた人らではあった。(一人は故人)

*******

事実、書きたいことは、男、女という舞台上の主人公ではなく、その舞台の世界のシナリヲを書いている黒子Xらのことであったのだけれど、それは実に人類の頭の範疇を超えてしまう事柄であって、ここでかなり肉なる低次元のしかも巷のありふれた心情解析から、と言っても実にこれも重要なことではあるのだが、いきなり高尚な話に結び付けようとしても無理というものであったということだ。

ちなみに、理解して欲しいと心から願っているのは『神』という流布された漠然とした対象化された観念たる言葉の存在ではなく、具体的に実態に影響を及ぼしている『主』と言われる方である。”方である”と書いたのは、理解するに人格的概念をもつ存在である、と理解するが故である。僕が宇宙人や黒子や、そのX、シナリオライター、プロデゥーサーなどと書いて来たのは、その作用を主に六次元から及ばされる方のこと。

その方は人が地上に現れてからずっと存在し、今も影響を及ぼし、意識すれば、それを人は会話するとか祈りともいわれるが、その方と繋がることが出来る。彼らが存在することは我らも存在し、我らが在することは彼らも存在する。今生で精度を高めて個人として彼に出会いなさいという勧めをしている訳である。少なく知る限り、多少係わる空海の伝えた”真言宗”ではその制度を高めよ、と教え、あからさまなる『主』は、まさにイエス・キリストである。

******* さて

ただかろうじて書けそうなのは、男にとって女という生き物は、男をひきつけ、あるときは亡国をもたらすものであったし、第一に子供を産むという生産力を持つ者であったし、そういう生産機能を持つ種がこれで政治的主導権を持ったとすれば、男として争いを好む闘争心をもつ生き物としては、社会の制度が整い闘争が穏やかになるにつれ、逆に男に取っては恐怖をもたらす生き物となってきたのではなかったか。

第一にその新しい魂をもつ、それには霊の受信装置でもある肉体を新たに誕生させることに男という生き物は圧倒的な敗北を内心恐怖を持っていたのであるから。それは当初、動物としての種の拡張と維持であって、犠牲をもって種の繁栄を守るという雄という種の働きであったが、時代が下り本来の雄の存在の意味あいが違ってきてしまったのであった。雌としての生き物としての引きつける魅惑、この錯覚が無ければまさに人類は滅びていたであろうけれど。

このシェアーされた一般に雄にはない自然体でのアトラクティブな機能は、無論、違った意味で種(自分のこと)を守ってくれという白馬の王子様の多いなる錯覚を雌が雄にも持つことによってドラマは出来るのではある。イケメンであるいは筋骨隆々で、私の肉体をとおして可愛い子孫を残してくれそう・・・というような規定がまずあって。人はその思いの奇形も芸術化するのではあったが、生き物の歴史はそれが原型になっている。

雄(男)を引きつける美貌を雌(女)が持ち、性的魅力を沸き立たせる女の顔はまず第一に隠さねばならない。そういう体の部分も隠さねばならない。そういう基底が醸し出す、普段の思考ではどうしようまない性的欲求処理の対象となって動物闘争のきっかけとなってしまうと彼女らが虐げられた某国では、すべてを隠すことが要求され、男が剣の代わりに銃を持っている。部族間の血を流す闘争もなくなり、実生活において生産性のない無能な男たちは、ぶらぶらと銃を持ってしかも徒党を組んで権威を保たねばならないという訳だ。それは、アトラクティブな機能を持たない男たちの補填のようにも見える。

さて自由にならんとする女という生き物の地位に、わたしは好きになった男の子供を産むのだ。気にいらなければ分かれれば。そしてイイ思いにさせてくれる、わたしの気にいった男と楽しむのだ。それで、雄という正にその男は子供を産ませる脳髄の本来に基底欲求を満たそうとするのが最低限の外交的能力であるから、そもそも駄目な男でも神はこの生殖能力だけは盛んにし、この機能だけは衰えることはなさらなかったことから、違ったドラマも生まれてくる。実際、暮らしてみなければその男の本懐はわからないというわけだった。

生理現象から、その生き物は男より自分の身体という肉体の困難さに自らの言葉を持ち対応しないといけない。曰く、生理という面倒な肉体を持たされる訳である。しかし、その分、より人の人体が何らに依存しているとか、身体からの行動されるとか、つまるところ身体から思考への影響を自分の言葉でもって勝ち取らなければいけない宿命を成長期に負わされているのであった。したがって、成長期は女が自分の肉体について言葉を持つ者としては男よりは秀でているものであった。

*******

それは、誰しもが、出自に起因する人生ドラマの基も自分ではいかんともしがたい幼少期に起源があるのであって、しかも、個々のそれらが地上の人類ここに存在して、歴史を通して集団をつくり、自らの出自を考慮しできずに消費と争いを繰り広げ、それがひいては首を絞めていることも理解できず、吐出した奇形が人類を一息に破滅に落としいれることもあるという、恐ろしい時代にもなったいるということである。最後にそういう生きている方であるという意味合いで漠然とした『神』と言葉の説明を、当初からベストセラーに著しているのである。

”心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くして『主』なる神を愛せよ!” ”あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ”

律法と預言者(つまりは聖書の云わんとすること)は、すべてこれに掛かっている、と。

*******

結局それは、『主』と創造された『人』との地球上のドラマである、ということなのである。・・・くだくだと一歩的に長話をし一部眠く、彼が僕に乗り移った言葉もあったようだが、深夜忽然と彼は消えた。