marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(300回目)キリスト教会の改善に関してドイツのキリスト者貴族にあててⅢ(M・ルター)

2017-03-25 10:57:48 | 思想・哲学
 他を批判するには、内容はともかく優位性を持つ気分に満足させられるように人という生き物の心のありようはできているものらしい。ドーキンスの”優越なる遺伝子”ではないけれど、人であるが故にやっかいなのだが、人間というのも他者(異物)を排他するようにできているのだが、どうもこれは男性と女性により異なるようだ。女性の場合は、俄然、生きている人間に対してその対象が向かうように思うのだがどうだろう。男性の場合は、結果としてそれは、周囲に知らしめる事が優先して、いわゆる結果、実績だと威張れるし大ぴらにガス抜きができる仕組みもあるようだ。
◆しかし、女性はその社会的基盤がその歴史の中で確立されてくることが無かったからなのかと思う。よって、手っ取り早く批判の対象が周囲の人間に向かうのではないかと思ったりする。男性の場合は、社会的制裁もあり、無論女性にもあるが、それが内面に向かう場合特に留意しなければいけない。これについてはいつか書いてみたい。いずれここでの前書きは、相手がAであろうとBであろうと、またそれが逆であろうと、いずれも”人間の思いからの行動”なのだ。同じ人間でありながら、ただひとり、神(イエス)の前に自分個人で立つということをしないためかと思ってみたりする。
◆哲学者ヘーゲルさんは”精神現象学”とやらで正、反、合という具合に矛盾対立する二つの概念を高次元の段階に統一するように精神的、社会的変動もアウフヘーベン(止揚)するように進むといったけれど(無論、彼もキリスト教抜きには語れない)、ルターがプロテストしたことは、もっぱら神のことばを受けとった朽ちゆく次元の低い人間世界のことに関してとして、それに当てはまるようにも思われてくる。しかしそれは、権威から大衆への言葉の解放、同時に個々人に神のことばが委ねられたのだから、より一層、天の世界から考えられないような被造物たる朽ちゆく人間ひとりひとりにもその命のことばが解放委ねられたということだ。つまり、アウフヘーベンの逆バージョン。よって、それ故に次は、我々がどのように今度はそのことばを自らのものとし、自己の中で霊的にといったらいいかそれをアウフヘーベンしていくかに関わってくるのではないだろうかと考えて見たりする。その勧めが使徒の手紙に見ることができる。
◆くだくだと僕が書いたのはこういうことだ。つまり、ルターは当時のカトリックにプロテストしたのだが、人間であるかぎりプロテスタント内でも似たようなことは起こるであろうということなのだ。それは、時代が今に下るにつれ”神が人間に初め善悪を知る木からその実をとって食べてはいけない”と言われたごとく、その基準がひとりひとりより内面化し、それが霊的な次元といえば良いか、その基準がますます不明瞭になってきているからなのである。
◆だから、プロテスタントしても、それがそうだと自己肯定して言われれば、曲がりなりに神のことばを伝うるにそれで良いのかとその時点で口をつぐわねばならないことが起こっているのではなかろうか。「礼拝と伝道」は、キリスト教の生命線である。フォーサイスという神学者は「神学なきところに教会なし」と言った。けれど、その道の方には、「”伝道はしない”、”伝道”という言葉も使わない、”どのよう”には専門家でありながらも明言しない。ましてfree聖餐とやら・・・。(日本語理解できるのかな?という)」方もおられる。「先生、先生と言われ、耳の聞こえのいい言葉だけを集めて話し自己肯定し、学校以外で習った事以外はまったく、邪推と振り払って、あれやこれやに受け止める言葉を持たない試練に弱い方がおられるのはどうしたものか。それがキリスト者の自由なのか。」ルターは神学に必要な事として第三に”試練”をあげていたではないか。
◆これが 今の僕のプロテストである。 さて、最後となりましたルターの第三の城壁について表題の文章は今回で終わります。
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 第三の城壁は、はじめのふたつが倒れるとき。おのずと倒れる。教皇が聖書に逆らって行動すれば、私たちは聖書に与して、彼を罰し、正す責任がある。〔マタイ18:15〕
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