タルー(T)とリウー(R)の会話は続く**********
(T)「なぜ、あなた自身は、献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに? あなたの答えによって、あるいはわたしも答えられるようになるんですがね」陰のなかから出ようとはせず、医師(R)は、すでに答えたことで、もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう、といった。しかし、世に何びとも、たといそれを信じていると信じているバヌール(神父)といえども、かかる種類の神を信じてはいないのであって、その証拠には何びとも完全に自分をうち任せてしまうということはしないし、そして少なくともこの点においては、彼リウーも、あるがままの被創造世界と戦うことによって、真理の路上にあると信じているのだ。(p-149)・・・********ここまで(アンダーラインは僕)
◆ここからは、僕の論。神学者野呂芳男の「実存論的神学 民衆の神キリスト」の中の初期論文で、カミュを肯定したニュアンスが、この箇所からも少しく理解されるであろうと思われる。そして、時代は1946年に発表されたといっても中世的階級という制限と世界が今のように同時に知られるような時代ではなかったにせよ、2020年の今でもそれらの組織的在り方と説教の聖書解釈に、そのしがらみに甘え依存して、引きずられている人というありようについて、そんな神なら信じない(先ブログの医師リウーの言葉)とカミュは言わしめているのである。プロテスタントとカトリックの相違でもあるが、プロテスタントと言えどもその領域から抜けきれない。だから神学者は、今も言葉で闘っているのだと言えるのだが・・・・その視点が問題となるように思われる。
◆隣国、韓国で感染者が4000人以上となり、その7割が大邱(テグ)。感染の6割にあたるのが信仰宗教団体「新天地イエス教会」で発生したものなのだとか。ソウル市は感染拡大防止に協力しなかったといって同教会イ・マンヒ教主を殺人罪などの容疑で告発した(日経新聞:国際面)。まさか、神は教会に集う人には災害は免れたもうなどという説教をやったのではあるまいな。一体、韓国という国の民族性、国民性は、日本国に対する政治的対応に対してもどういうものなのだろう。日本の国民性と非常に違和感を覚えるような民衆の感覚のズレが、こういう大変な事態にも表れてきているように思われて仕方がない。政治に影響を与えるその国の民衆の宗教性についても、”民主主義を壊すのは民主主義”であるという意味について(正義と思えば一斉に合意するそのオーバーヒートする気質について)、組織体と個人の責任のありようについて深く見つめなおさなくてはいけないのではないか。日本の教会はその大衆の熱心さにおいて韓国のキリスト教界を称賛する。しかし、その根はどこから来ているのだろうか。我らの闘う視点は(観点は)、もっと一人ひとりの身近にある、目で見て、手で触れてわかるところにあるのである。(ヨハネの手紙1:1) ・・・ 続く