・・・続きです。 ◆ゴチック文は僕の返信コメントです。今回で終わりです。
(五)救いとは
脱落存在としての人間を再び神の愛の内へと戻させる神の働きです。人間が神の愛の「外」にあるが為にsomething wrongという矛盾が生じていたのですが、今や、人間が神の愛の「うち」へと回復されることによって矛盾が調和へと回復され「あるべきはずの状態」に戻されるのです。
創世記3章に示された人間の原罪は人生の「はじめ」(出生)、なか(労働)、終わり(死)の全てに矛盾と問題が孕んでいるのですがその矛盾を残したままで救いの中に入れられるのです。羞恥心を伴わずにおれないような行為を通して生起した人間の出生は文字通り矛盾ですが脱落を内に包み込む神の愛に入れられることによって祝福に満ちた出来事として受け取られています。重荷として受け取られている労働もそれ自体は矛盾ですが脱落存在を内に包み込む神の愛に入れられることによって神の祝福に満ちた出来事として受け取られます。労働それ自体は神の罰として否定的な重荷の性格を持つことを素直に認めしかも人間を仲保する救い主によって再び神の愛の内へと回復されて労働が祝福に満ちたものに化せられるのです。最後に「罪の支払う報酬は死である」としての矛盾的性格において受け取られていた「死」も脱落存在を内に包み込む神の愛によってその姿を一変し、罪の刑罰であった死が神の御元へ帰るという帰郷の意識において受け取られるようになるのです。神の愛の内へと回復された信仰者も現象として(実生活においては)老・病・死の苦しみを経過します。しかし救いなき不信仰者においてはその状態が全てであるのに対して信仰者はこの矛盾的現象の背後に調和的な帰郷の意味を悟るのです。このような調和の光が背後にあることよってのみ私たちの日常生活は矛盾として認識されるのです。以上の説明をあくまで人間としての角度から見るという態度で語りながら、超越者としての神の光を映し出さざるを得なくなったのは飛躍や独断によってではなく「人間」という事柄そのものによって迫られたことなのです。
◆ここはエッセンスですね。未信者の方にイエスという方を受け容れてもらうために、どのように語りかけたらいいだろうといつも思います。ルターは神学には試練が必要だと言いました。肉体において困難が、それがあるときは心理学的にはストレスと呼ばれるものであったとしても、その中から神との会話を自分の言葉で模索する者は動かぬものを得るでしょう。僕は今、日本の隠されてきた古代史に興味をもっています。それは紀元前、捕囚にあったイスラエルの部族が東を目指して移動し、時代、時代それぞれの国に同化しながらも多くが、この日の昇る国に来ていたというものです。確かにそうだろうと僕は確信を持つようになりました。あの困難の中、神がパウロに語り掛けたように「恐れず語れ、この地には私の民が多くいるのである」と。・・・ 終わり