marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(923回)親愛なるMへの手紙(その2)

2021-09-19 08:08:08 | 手紙

◆大人になれば、時代が異なるし、当然、子供の誕生というのは親から出てきたのだから当然、先に生きて来た分、文句は言えないということもあるでしょう。けれど、一社会人ともなっていますから、対等に意見を言うことは必要かと思われます。ただ、そこで困難なのは、親子いかんに関わらず、一人の人間として生きてきたその内面的な宿題というのは、子供に金銭に関わる従属が切れれば、まったく無関係な訳で、これが基本的人権の尊重となっている訳ですね。実は夫婦などもそうなのだね。親子に限れば、先んじての経験から教示することは多くあるだろうけれど、その他のことは大いに子供から教示されても可能かと思っています。ですから、いろいろ問題のある親父だと思えば、すべてのことは返答することができるかと思われますので遠慮なく尋ねていただければと思います。人はそれぞれ人生において神様から宿題を与えられているのである、というのが小生の思いです。

◆さて、8月22日にどんなお話をしたかというと、題は「永遠に至る自分の命」というものでした。以下(次次回)は、お話前のメモです。今回は、原稿はなく45分ほど話しました。従って、お話の原稿はありません。8月は日本のお盆の季節ですから、第一その死生観についてきちんとこの国の人々が認識しなければ宗教の一種としてだけでしかキリスト教(第一こういう書き方しかできないのだが)を考えないので「永遠の命」にはほど遠いというものだろうという反省から、信徒がきちんと話さなければ、牧師では仏教をあからさまにおかしいとは講壇で話さないでしょうし、けじめとしてそのことをお話したいと思っていたことなのです。◆聖書の中で、パウロだったか「この方以外に救い(永遠の命)はない」と書いてある言葉があって、これを、それは無いのじゃないか、とか、あるいは傲慢だとか、思っておられる方がおられればの話だが、是非調べて欲しいのです。第一、そういうことはそもそも、言葉にすること自体が不謹慎なことなのだ・・・と考えが尊いことなのだ、とこの国では言われてきた歴史があるありますからね。しかし、言葉の宗教と言われるキリスト教は、人の言葉になって多いなる責任を負わせられたということになるのだ。天になるごとく地にもならせ給え、とは、実際のならせるのは地上の啓示を受けた人々なのであったのだから。



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