〔写真〕僕の近くの高台に児桜貝塚跡がある。時代は縄文時代前期5500年前である。エジプトのピラミッド(縄文後期4000~3000年)より1500年も前の跡である。
〔心の序章〕世界の舞台のシナリオは、主人公たる地上の生まれさせられた人のアドリブ如何に係わる。実験がなされ、リセットもなされたけれど、程よく成功して地上に順応ができるようになった時に、起こった事件は前に書いたことである。それは、高い次元での出来事である。しかし、その影響は脱ぐい去られることなく、地上の歴史に波及した。今も進行中である。その戦い。2021年、現在の中国やミャンマーの外から人民を規制することに対して、民主主義とは、その主人公たる人民の心のインフラがいかに重要かを物語る。(僕が昔、仕事で中国深圳の地方の工場にいくと町の中に鉄の格子のあるアパートが見られた。異様なので尋ねたところ。思想矯正所とのことだった。)
〔自由〕問題は所謂「自由」ということであった。先にまで述べたように、地球の上のインフラを整え、そこに舞台を作り、出演者を想定する。無論、シナリオライターは、未来のことを知っている。まず、初めに規制を自ら守るべくの教え、その理由は第一に自由から脱線しないようにである。律法は、自由を規制するものと思われているが、これは逆である。人の自由たるべく心のインフラ、所謂、心構え、その芯という奴だ。そのインフラが遵守されれば、真の自由がもたらされるのである。それは最低限度のもの。この順番がそもそも混乱、逆転したが故に、後代、肉体を規制する細かな無駄とも思える律法が作られていったのである。
〔真の自由〕イエスが、「私は律法の完成の為に遣わされた」と言われたのはそういうことである。一人一人の心の内なる規制の自覚があっての自由なのだ。誰に言われるものではなく、不思議なことに、この国の多くの人は、そのことが何を言うのかを理解している。文字に現れる古い時代、理想の国を求めて、あの創造に関わったJの思いをこの国に伝えてきた人々がいたからである。あらゆる宗教で修行と言われるものが肉体克己を目指すのは何故かを考えよ。イエスは、これは不要という、永遠の命への不完全さを人から取り除くために、私は十字架に掛かる。「私を信ぜよ。私は道なり、真理なり、命なり。」という。「真理はあなた方を自由にする。」と。
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