marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(467回目)今の時代を生きる僕らの責任だ!これから終わることの無い課題の・・・

2017-12-14 06:00:00 | 日記
 誰でもが、先の物書きの専門家には、無論なれないだろうけれど、考える事は出来る。すると、考えるだけでいいのかという意見が必ず出てくるものだ・・・。硬派にはそんな意見が必ず出てくる・・・。表題のような物いいは、何もこの2017年のこの時代のことだけではなく、いつの時代もそう思い生きてきた人が沢山居るのだ。昔から・・・。僕などは少しく無論、難しい本などは、特に文語や難しい漢字などのちりばめられた知識人の紹介により知るのだが、その時代時代にそういう考えの人が居ましたよというだけで終わって、なぜ、とか、その考えが今という時代の人々に良い意味で影響を残し、継続し発展させるというような思考手段にどうしてならないのだろうかと不思議に思っているのだ。この国に。しかし、・・・
◆ハンナ・アレントの「人間の条件」はとても難しい訳だけれど版を重ねているようだし、「責任と判断」の方が読みやすいけれどこちらは歴史から単純な一般的な記憶に棚上げしないでくれという大変な歴史を歩んで来たユダヤ人の方には非常に人気が悪い。確かに、僕ら人間というものは(と又、大上段な物言いになるが)、かのマザー・テレサが言われた「無関心になることが一番悪いこと」と言われたように、「善いこと」のように棚上げし自己の言葉の了解で満足していくだけの記憶の上澄みにならない為にも、彼らは具体的な楔を痛いほど目に見える様に世界に叫んで打ち込んでいるのかも知れない。「断腸の思い」という言葉があるが、彼らは歴史の中で、神の言葉をそのように体験させられて来たのだから。しかし、静かで敬虔な人々も多く居るのだから総括して言いくるめることもいけないのだが。
◆この2017年は宗教改革から500年、マルチン・ルターがイエスの言葉を一般大衆に開放したのだが、人というのは元々が罪深いから、大衆のイケイケどんどんと野放図で大変な歴史もおこったのだが、最終は、いつの時代も、これからの時代も結局のところひとりひとりの個人が何を真に(芯に)求め、生きる土台(それはその当人が言葉では表せない、意識されないものかもしれないし、そうだろうと思うが)として新時代を生き抜いていくか、全てのしがらみから解消されて脱出していくかに掛かってくるだろう。今までの人が築いてきた良心の判断がリセットされる時代に入ってきたということを僕は感ずるのです。
◆無関心:だから彼らは、世の終わりまで苛立ちを終わらせないかもしれない。新約聖書によれば、平和の時代が来たときにいよいよ世の終わりが近づきつつあるということだから・・・。彼らは世界の国の仕組みを変えていく。旧約時代、世界の歴史で習うバビロン捕囚という彼らの歴史、彼らは帰ってきた。ディアスポラになった人々(失われた10部族)も居たのだが、無論、簡単に総括できるような話ではないのですが。なぜ、それが出来たのだろう。彼らは、捕囚先で政治的な高官となった人々がいたということです。旧約を編集した(書き直したという意味ではなく)エズラ(旧約聖書:エズラ記)その名があるは、筆頭その人。彼らの努力は大変なものだったろうな。それからローマの時代に入り、また離散。今は嘆きの壁のみ。終わりの日に、神が呼び集めると言われたごとく第二次世界大戦後、1948年イスラエルは建国された。それが今年2017年末、トランプ大統領になり、イスラエルの首都をエルサレムにすると宣言。彼らの神は生きているということになるか。
◆世界の人が無関心でいられないのは世界がその影響を蒙るからです。で、突然に話が飛んで、安倍総理が総選挙以前の話ですがイスラエルを訪問されたことを覚えている人が居るかもしれない。サイバーセキュリティーのダントツ優れているのはイスラエルの企業です。総選挙の票は何で集計されますか? ・・・自民圧勝です。(この国は、搾取され続ける仕組みに取り組まれつつあるのも知るべしです)。
◆「聖書(旧約)に書かれているのは私の事なのだと。」とイエスは言われた。僕らは、地上を去るにあたっても、残るにしても全地宇宙を支配すると言われる神の独り子と言われるイエスの言葉からいつも出発しなければならないと思う。***ハンナ・アレントの言葉で終わります。***『絶対的な意味での善というのは、古代ギリシャ=ローマの「役立つ」ものとか、「卓越した」ものと違って、西洋の文明で知られるようになったのは、ようやくキリスト教が勃興してからである。』(「人間の条件」志水速雄 訳:ちくま学芸文庫 p104 )・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(466回目)余談:カズオ・イシグロのノーベル賞記念講演に関して

2017-12-12 06:46:15 | 日記
 作家、村上春樹さんのファンの方はごめんなさいです。僕のブログを読まれて来られた方は、ノーベル文学賞は村上春樹は貰えない、それは、数年前、新聞記事を読んでそう思った、と書いたことがありました。それは、日本の巷でノーベル文学賞、次は村上春樹では?と言われ続けていたときでありました。
◆今回、カズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞講演の記事が地方新聞に掲載されたのでその答えを(あくまでそう推論していた僕なりの単純な答えですから確認のしようがありませんのでぼかしてますけれど)を掲載します。
***カズオ・イシグロ、講演のタイトルは「わたしの20世紀の夕べ - そしてささやかな発見」***
 『「大切なのは物語が感情を伝えることであり、国境がや分断を越えて人間が共有するものに訴えかけるということだ」と語った。イシグロ氏は、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の舞台になったアウシュビッツ強制収容所への1999年の訪問が、作品で書き続けた「記憶」という主題を発展させ、国家が負の歴史とどう向き合うのかという大きな問いにつながる転機だったと明かした。』****(答えはここにあります。数年前の新聞の記事とは、村上春樹さんがかの地(確かイスラエル)に招かれて講演を行った記事を読んだ内容でした。後は人類は何処を目指して生きているのだろうか、などと考えながら推論して見てください。2017年、イスラエルの首都をエルサレムにする、とアメリカのトランプ大統領。・・・人類よ考えよ!そういう時代になった。核(兵器)廃絶にしても「終わりの始まり」が全世界の人類に分かるようになって来た時代に入ったということだと思われます。)
◆世界のベストセラー”聖書”を拡散的に語ってきてどうしても、現実の悲惨な歴史、過去を観念的に思い、ご都合主義で自己肯定して、安穏としている(ように見える)僕らにとって、このような歴史の悲惨の普遍性と、それからの新たな今を生きている僕らの、そしてこれからの自己のありようの自己発見を今も彼らの歴史から何を学ぶか、肯定も否定も含めて、は(話は大きくなりますが)人類にとって僕の考える”これからの”新しい人間”にとってどうしても避けてとおれない課題となっていると思うからです。(しかし、この国はこれを避けている。それを支える強靱な思考の土台の育成を拒んで、感情的、情緒的、光を見て陰を忘れようとする・・・※東京駅前広場の改装、”平和の像”があると<男性が両手を空に広げて、礎には「愛」と大きく刻まれている>。日本、アジア諸国での戦争犠牲者の為に建てられたとか、戦争責任云々を問われる事を避けて公にされていなかったとか。NHKニュース、アナウンサーの私でも存在を知りませんでしたと。この国は思想面においてはこういう国なのだ、今のところ・・・)
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◆◆イシグロ氏講演のキーフレーズとして(地方紙では英文と共に掲載)
◎小説の中で私にとっての日本を築き直したいと思った。
◎私にとって大切なのは物語が感情を伝えるということだ。物語は国境や分断を越え、人間が共有するものに訴えかけるということだ。
◎私たちを鼓舞し、導く若い世代の作家たちに目を向けている。今は彼らの時代だ。
◎私たちは多様であらねばならないと私は信じている。
◎分断が危険なまでに深まる時代、私たちは耳を澄まさなければならない。良い作品を書き、読むことで壁は打ち壊される。
◆で、若い世代の紹介 中村文則 「R帝国」・・・民主主義を装っても、実態は全体主義国家だ、と文芸インタビュー・・・
 ここで、ブログで紹介したユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレントが語った「全体主義の起源」に戻って来るのです。考えることをやめるとき、凡庸な「悪」に囚われる、と彼女は言った。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(465回目)その2:「終わりの始まり」が世界に分かるようになって来たのか?

2017-12-11 07:48:34 | 日記
 ノーベル平和賞、国際組織NGO、ICAN が核廃絶禁止条約を訴えて受賞された。

◆「核の終わりか、人類の終わりか」。人類の良心の芯からの訴えというのは大変な持続力が必要だと思った。被爆者サロー節子さんが掲題の「終わりの始まり」という言葉を講演で語られたので残しておきたい。

◆先のキリスト教神学云々も一般人にはなじみが薄い。実は彼らの活動の原点は、上澄みキリスト教からではなく、もっとその原点、イエスの神が人類を創造されて、その破滅か否かは、その人類自身に掛かっているのだということなのだ。

◆人々が「人類」という言葉を使い始めるということは、そして、そこで人々がその思いを共有化できるということは、やはり、全ての地上の人類は、宗教ジャンルを超えたわれわれ人類を創造された神の措定された思いを誰でもが内に持っているということだろう。

◆全てのしがらみを越えて、命をことばを全ての人々に! 

 次回、カズオ・イシグロさんの講演のことを少し・・・・。  

世界のベストセラーを読む(464回目)「終わりの始まり」が世界に分かるようになって来たのか?

2017-12-10 09:33:17 | 日記
 イスラエルの首都をエルサレムに認めるとアメリカのトランプ大統領。
◆キリスト教の新約神学においては「終わりの始まり」ということが言われる。それは、神の独り子イエスが、人の永遠の命への担い手として地上に来られたことで人類は「死か生」かの明確な審判へのスタートが切られたと例えられると考えていいのかもしれない。
◆アメリカのキリスト者達は、今回のトランプ大統領の声明をどう考えているのだろう。波風を立てないとこれからの世界は前進しないと考えたのかもしれないが、これからのキリスト者は、生き方に困難を覚える時代に入って行くかもしれない。
◆ユダヤ人の方が信じている聖書(旧約):イザヤ書第49章から(前の数値は節) 聖書には無論、この箇所ばかりではなくの多くの箇所に地上における神の呼びかけが書かれている。彼らはそれを信じている。新約聖書においては、全世界のキリスト者は、地上ではなく天におけるエルサレムへの帰還と考えている。ユダヤ人はどうしてこうも頑ななのだろうか。使徒パウロがすでにその手紙にその訳を書いているように見られる箇所が見える。
◆何度か書く、世界に離散している正当なユダヤ人の人たちは、”過越の祭”を今も祝い、結婚式の時には、新婚両者はグラスを割る。あの歴史の痛みを忘れるな、であるのか、神が真の自由を求めて解放されることを信じて導かれていたあのモーゼが忘れるなと言ったことを思い描いているのか。彼らの歴史は”覆水盆に返らず”である。歴史は直線に進む。そして常に神の世界?に向かって前進する。突然、話は飛躍するが、今後も決して表には出てこないだろうけれど”日露戦争”、彼らのサポートが無ければ、日本の勝利はまず起こらなかっただろう。これは確かなことだ。この以降の戦争に勝利に有頂天になってめくらになってしまったことに最終日本は敗戦となったと考えることが出来る。
 
 では、イザヤ書第49章3節、5節から*******

 3 わたしに言われた
   あなたはわたしの僕、イスラエル
   あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 6a こう言われる。
   わたしはあなたを僕(シモベ)として
   ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
   イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

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世界のベストセラーを読む(463回目)その3:この国のアイデンティティー(憲法改訂と天皇の改元について少し)

2017-12-09 20:40:29 | 日記
 表題の(  )内の今の考えはこの程度という少し恥さらしのところですが、主旨から言えばどうしても触りは書留めて置かなくてはと思ってしまう。その前に、何でもキリスト教は正しいのか、と考えられる方がおられれば、やはり御自分が思われているキリスト教とは何かと考えられることをお勧めする・・・と偉そうに書いてたのはいいいが、これは難しい。全てのしがらみから解放されてと書いても、まずは本当は自分の言葉で直接、ぶつかって見なければ分からないのだが、先の『日本の思想』(丸山真男 著)の Ⅲ思想のあり方についてあるように”人間はイメージを頼りにして物事を判断する”からである。
◆それは、人の思いは結果として現れ、それが組織だって善きにも、あるときは悪さもおこすという具合だからだ。キリスト教国西欧の歴史の悪さを見よという具合である。しかし・・・だ。実のところ、この国の自国の歴史は全て教えられていないのである。おそらく知ってもそれを受け入れる考えを支える土台が鍛えられていない。東日本大震災の傷跡も見たくもないとのニュース。何度、痛い目にあっても自分が嫌なものは嫌なのだと。で、いいとこどりで考えたいのだ。この国だけでもないだろうが多数ある。12月8日は、1941年(昭和16年)に日本がアメリカとイギリスに宣戦を布告した「 開戦の日」、いわゆる太平洋戦争の開戦日。このとき、この地方でのニュース、日本で最後に空襲が行われたところで近くのお寺で戦争のむごさを学ぶというので、子供達が爆風で落とされたといわれ、首の無い六地蔵のさんお前で手を合わせている。
◆この地蔵の首については嘘である。心情的な事柄に如何に嘘が舞い込むかのいい例である。日本中では”日本むかし話”でも知られる六地蔵さんの首がないのが、あちこちで見られるはずだ。これは、日本の歴史で日本全国で起こった”廃仏毀釈”で落とされたものだと・・・これは、実は田舎の寺の若い住職に教えられたものである。確かに戦火に遭わなかった田舎のお寺の地蔵も首が無くなっていた。田舎の墓に登る道を中に「上」(カミ)の、「下」(シモ)のと言っていたが、お墓に着く前に12体の六地蔵が小屋に並んでいる。「上」に住んで居た僕の田舎のミツ婆さんは、”罰当りめ”と「上」の地蔵の首を守ったそうだ。だから、「上」の六地蔵の首はきちんと今もついている。「下」の地蔵の首は全てない。僕は田舎の墓に行くといつも六地蔵のことでミツ婆さんを思い出す。
◆人は、その善い面として仕組みになったことは当たり前のように体験していてるのだが、それは実は多くの人の願いや努力の上になされた来たものなのだ。それに対し、悪い面は誰にでも敏感に共有化することができ、しかも人は誰しもが批判家になれば優位性の気分的は持てる意味合いから、簡単に唾棄すべきこととして共有化できる訳だ。子供達のいじめについても似たものだろうと。客観的に自己を見つめるには、”人はいかなる生き物か”というような土台が無ければならないだろう。ここに医学的な進歩で人の作りの機能面の研究はなされてもそれを総じて支える一貫した普遍的なと言えば話は大げさになるが、その言葉がない。先の著作に従えば、価値の歴史的蓄積という契機はすべり落ちてしまうのである。(p23)これはキリスト教で言えば「人間の罪」の概念に拘わるもである。
◆天皇制についてはその有りようで日本のアイデンテティーが保たれてきたきたことは疑いようがない(賛成とか反対とかではない)。しかし、伊藤博文が日本の国の「機軸」のない憲法政治に対して、にわかに恣意的に神道からみで、「我が国にありて機軸とすべきは、独り皇室あるのみ。・・・」(p30)としてヨーロッパ文化千年に渡る「機軸」をなしてきたキリスト教の精神の代用品を兼ねるべくにわか国家体制の創作、しかも隣国までその強制範囲を広げていこうとしたことは、思想も何もあったものではなかったという、しかも心情がらみでその分離も定かで無く、情の世界に流され、未だ「機軸」が見えようで見えないのはどうしたものかと思うのだ。・・・