marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(462回目)その2:石原慎太郎 文芸批評ー『日本の思想』(丸山真男 著 岩波新書)を一読されたし・・・

2017-12-07 07:39:03 | 日記
 先に書いたその苛立ちというのは・・・、どうしてこの国では、人という生き物について、正誤は定かならずともこういう考えで生きて考えて来たということが言われるような核がないのかということだ。・・・と書くと、そんなことはないでしょうと思われるだろうけれど
大上段に構えた僕のものの言い様は、今でもいつでも目に飛び込んでくることの言葉に対してだ。全てに於いて表題の学術の著作のようなものがあるにも拘わらずというか、この国の新聞の本の広告欄、特に人の生き方や死生観に関する事々。いつも同じところにリセットされて、そこから先に行かないように思えるのはどうしてなのか。先月11月28日の地方紙「文化」欄を読んで、また、数日ブログがとまってしまった。
◆石原慎太郎 文芸インタビュー”児童殺傷事件たどるノンフィクション 人間存在の意味に迫る”。2001年に大阪で起きた児童殺傷事件を扱ったノンフィクション著作出版に関しての記事。当初は「神はなぜこんな人間をつくったのか」「神々の不在」というタイトルを考えていた。「神様をとがめざるを得ない」ことが理由だ。そして、今秋85歳となり、自信の最後を思う時間も増えた、とあり「死ぬのはどういうことですか」と聞かれたら『死ぬのはつまらない。死んだら暗い道を一人っきりで歩いて行くんですよ』と思う。死んだら虚無。虚無と言うことが実在するんです。」・・・僕のこのブログの主旨からいうと、ご覧のとおりこれがこの国のそのままなのですと。
◆亡くなった方への供養の為、とありますのでその事ではなくて、後半の作家個人の死生観についてのこと。言葉の専門家、それで稼ぐのもいいのでしょうけれど、とがめる神様とは?、こんな人間をつくった神とは?どうイメージされているのか。神々の不在の神々とは?、どうイメージされているのか。この国の神様のイメージは、いつも僕らに都合のいい神様であって欲しい、それにつきる。先に進まないのは、将来においてもこの人の心の問題は決して解決はしないだろう。強く言わせてもらえれば、欧米の著作専門家から言わせれば、おそらく多くの疑問を持つだろうと思われる。しかし、この国だからこそ、こういう現世で鬼退治をする言葉をストレートに語る人が必要なのかもしれない(つまり、親父感を言い放つ人)。「人間存在の意味に迫る」と大きな見出し・・・しかし、解決はしない。周辺をうろつくばかりだ。そもそも、それなりに文章で金を稼ぎなおかつ国会議員もやられたとなれば、少々おかしなことを言ってもマスコミが騒がないのはどうしてなのだろう? 問題はこの国の次世代への教育のあり方、考え方、思想などについての・・・何を核として過去の賢人達は言葉を模索して来たのかという、そのことを教えないのかなぁ・・・。いいことばかりでなく、無論、厳しい自己批判を含めてだ。
◆上に立つ人がそうならば・・・子供達へは主体性の育成と言いながら、その土台の僕らが人との会話をする言葉というものや、そもそも過去の人にはこういう人も居たというのはいいいが、その人の考え方までは入り込まない。総じて人というものはどういうものであるとかの考え、それにはやはり、欧米の主要大学の定礎に書かれるような”神を恐るるは知識の初めなり”というような、その土台がない。
その時代、その状況でその人が考えただけのことというような、知識だけの話に丸め込まれてしまう。だからこそ、さかのぼってユダ人の人々の”過越の祭”を決して笑ってはいけなのだ。現代の政治的がらみではなく、あくまでその意味についてであるが。小林秀雄という評論家の言ったごとく、この国では「歴史は思い出にすぎない」のだ。
◆表題の丸山真男、本の目次を拾って見る。例えば、まえがきより 日本思想の包括的な研究が何故貧弱なのか、日本における思想的座標軸の欠如、・・・近代日本の機軸としての「國體」の創出・・・天皇制における無責任の体系・・・合理化の下降とと共同体的心情の上昇・・・などと目次からみてもどのようなことが書かれているか推測できそうな内容だ。無論、このような批判めいたことを書くのは、あくまでこの国のしがらみについて、何をとり、何を捨てるかの選択肢、それは個人、つまり自分のこと、その人の言葉、肉体の限界も含めての精緻な分析と同時に世界を見て行かなくてはならないだろうと思う。 ・・・だいぶ、小難しい話になってきた。 続く 

世界のベストセラーを読む(461回目)その1:『日本の思想』(丸山真男 著 岩波新書)を一読されたし・・・

2017-12-03 21:16:53 | 日記
 すでに古典の部類に入るか、ここには掲題の表題のことの「はじめに」というものを思いつくままに書いている。何故か、表題の著作が僕の書棚に3冊もあった。それは、どこかの古本屋を捜せば100円くらいで今も買えるかもしれない。10年以上も前に仕事は多忙で、出張のおり時間あれば、思い出したようにこの本を買って読んでいた。そのころはまだ記憶も定かだったような気がするが、はっきり読んでいなかったのか、日本古来の思考の通奏低音という奴を僕の頭でつなげていこうとするときに古本で安いからと買って読んだものだ。で、・・・余談その3 としたいところなのだが、つらつらと・・・などと流暢なことではなくなったように思われてきた。天皇陛下の退位2019年4月30日と決められたとのニュース。元号が変われば、また新しくなったと全てがリセットされてしまうのか、この国の刹那的生き方に我慢ならなくなったことが思い出されて来た。この国には思考が歴史的に蓄積されてその上に前進されて行く知識のものではないらしいことに。ただ、使徒パウロに言わせれば、肉的に有能(知能、体力など)な人間の育成のみが行われ、まさにパウロに言わせれば、それらはキリストを知る上で糞土のように思うと言わしめた、一人一人の魂の天への帰還、永遠の命への知識。
◆この国のアイデンティティーについて書いてきて、僕のブログの主旨から言えば、宗教ジャンル如何に拘わらず人が肉体を持ち、霊を吹き込まれ、個体として魂を形成し、聖霊を受けよ、我に返れと呼ばれる創造神の基へから遠く離れ、地上をうろつく帰りどころの無い霊に翻弄され、あるいは満たされなかった霊の再生を願いに転生を受けつつ人類は終局を迎えていく。個人に於いても実際のこの地球上の生活のドラマにおいても・・・。そこで、僕らは、他人としての生を同時に生きることは出来ないのだが、しかし、人は動物としてのドラマをどうしても作って行く。それは、わたしでは無くてもよかったのだが、意識において言葉化にするならば、落胆せずに走ってしまった(生を受けてしまった)からには、特に恥をかこうが、裕福であろうが、貧しかろうが、名誉を得ようが、いずれ僕らは、どうしても自分のこの地上の三次元のこの空間を埋めているこのときから逃れることは出来ず、それをするには意識化つまり言葉にしないことだとは知りつつ、それを受け入れるとすれば人生は長い。楽にこの肉体を抹消するには肉体の処分を誰かに任せねばならなくなり、同時にその抹消をこの目で見たいと願うやからも発生する。神の似姿に創造されし、あまりに遠く離れてしまったこの生き物の不可思議・・・。だからこそ僕はこの地上に命を受けた意味を知りたい。人がこの地球に命を受けるという意味を・・・
◆何やら訳の分からぬことから書き始めたが、このブログの主旨は何ら変わらない。僕はイエスの言葉、永遠の命を宗教というジャンルから外したい。宗教というジャンル自体、人が作ったものだろう。そもそもそのことから、すでに人の総括、その位置づけを図り、その前提の上に自分の思考の位置を定めるという人の思考構造の限界を示しているものだから・・・。使徒パウロは、肉体と霊の「法則」と言い、イエスは、イスラエルの教師ニコデモにこの地上で実際に行われている霊の動きを話して、この地上で起こっていることが分からなければ天に於いて行われていることがどうして分かろうかと叱責する。その当然に行われていることを、より知ろうとすれば、宗教で説かれるところの道徳律のような呪文は、一体なにか、と素直に僕らは疑問に思わなければいけない。しかし、この国は、そのうやむやの中に心情として全てが制度として気づかぬうちに飲み込まされてしまうことの苛立ち。
◆「知性は情念の奴隷である」(ヒューム)・・・この国は、結局のところ大衆はその出来事の意味を深く知ること無く、当然としての動物として持ち合わせる心情に一般通念を求めて納得してしまう。これは肉体に引きずられる言葉が強く、肉体を越える言葉を持つことが出来ない。つまり、解放されて自由になるべく全てのしがらみの第一要因は、己の肉体にありということが理解できない、だから、これからの脱出を図らなければならないというのが、実は宗教家が教えるところの第一要因であるのだ。・・・続く