marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ピーター・フランクルさんの講演テーマ:「人生を楽しくする方程式」を聞いてきた

2019-10-11 06:00:00 | 日記

県の金融広報委員会が主催 講師は数学者・大道芸人 ピーター・フランクル氏 

◆一言 「才能は身を助ける」である。世界中のあらゆる国を何十回とまわり、そこに住み着いてほとんどの国の言葉が話せるようで、ここにきても韓国人らしき人と中国人らしき人と 確かにその国の人だったらしいのだが韓国語、中国語で会話してきたというのであった。日本全国の県もほとんど数知れずまわり、ダニエル・リカールさんと間違えられた時があったそうで、とんでもないと大きな2つのトランクにはカタカナと英語でそれぞれ名前が大きく貼られて持ち歩いているとのことだった。

◆お得意のボーリングのピンのようなものでジャグリングをたくさん披露。棒回しも・・・。数学やこのような余興は、国を超えて共有化されて認められるからと、今も世界中を・・・。

◆テレビは見ない。否定なことのニュースを知らないわけではなく多くを語れるがほとんどそれらのマイナス的なことは不要のゴミ箱行き。あれこれ考慮してどうするのですかと。出て歩いて前向きなコミュニケーションをしましょうということだけが講演のテーマの結論であったような気がする。写真も録音もお断りの場内アナウンスが流れたので(日本各地を回り、同じことが話されているだろうから)自身の生き方そのものがテーマの結論なのだろうと納得した次第であった。

◆彼がユダヤ人であることは皆が知っていただろうけれど、自分から講演の席で宗教の話をしだしたのは少し驚いた。自分の両親はいずれも医者だった、そして親族もすべてあの大戦中、ドイツのアウシュビッツで亡くなったと・・・ここまで話すとは思わなかったな。自分は、ハンガリー生まれ、イスラエルには一度しか行ったことがない、にも関わらず、大変な迫害をあちこちで受けてフランスに亡命。

◆日本は、いい国だ。「私(I)」をはじめに持ち出さない。相手の話を聞いて対立しないように話を進めていく心くばりはとてもいいことだと。宗教もいろいろあり、結婚式やお葬式などそのつど、宗教を取り入れている、宗教対立させないという日本の考え方はすばらしいと思うと。・・・そうなのだ、この日本は不思議な国なのだ、とその秘密が「僕の生まれた小さな村の大きな話」にもつながっている。

◆ボードに数学の問題が書かれていた。これを解いてみてください。これを読まれる方、フランクさんがどこかの講演に招かれたとき、同じ問題を聴衆の皆さんに出されるかもしれない。

 6つの数字。 書かれていた問題は下記の通り。 問題は一番下の 112 が 110 になるような 一番上の1~6までの数字を並び替えてみて下さいという問題。

 1  2  3  4  5  6 

   3    5  7  9  11

    8      12      16       20

                20      28      36 

                     48        64

                          112

◆これは少し難しい。400名の会場にたくさん聴衆はいたけど、お年寄りばかりで数学の先生がいればわかったろうがほとんどわからなかったろうと。結論は、数学は答えが一つとは限らないのですよというのが言いたいことのようでした。回答を最後にすらすら書かれましたが、ほとんど方はわからんかったと思う。

   僕が解いたのは次回をお読みください。・・・・次回、解き方と回答 


村上春樹氏ノーベル文学賞逃す高校同級生もため息

2019-10-10 23:38:10 | 日記
彼はもらえないよ と僕はずうと前から言って来たんだけれどね。僕のブログを遡って読んでくれてた人は、すでに騒がれる前から・・・その理由を書いてたけど

世界のベストセラーを読む(594回) 僕の生まれた小さな村の大きな物語(僕とは誰なのか?何故いるのか)

2019-10-10 09:35:45 | 小説

僕が生まれて生きているということ、そして年を重ねて、だいぶ疲れて来始めているということ。・・・ 「僕の生まれたにある八幡神社」

◆自分とはどういう人間か というのは難しい問題だ。まさに僕自身ではいかんとも知れない”しがらみ”がまとわりついて、詰まるところ脳ミソが正常に働いていないことがあるからで、もう少し詳しくいうと前頭葉、それもいつも僕は鬱状態なのか、むかついてそこに血が回って行かないようなのだ。アドレナリンが盛んになり、脳神経内でドーパミンなどがバチバチと火花を散らすような(知的解放の発露、イメージの発散というような)時はそんなにあるものではない。そもそもこういうことは、自分の責任というものでもなく、といって逃げる訳ではなく、まさにそれぞれの人生は、その与えられた宿題を解消するよう努力するのがその人の人生にあるのだ、とも言えるだと僕は思っているのだ。従って人生は一度しかないから肉体快楽の発散という意味での「楽しくやろうぜ」というものでは決して無く(僕はそれを否定はしないけれど)、一度しかないものだから「その何故を解消すべく人生はあるのだというのが」、僕の人生というものへの考えなのである。

◆こういうのは宗教的人間というのだろうけれど・・・「誰でも実はそのように考えられよ」、というのがこの国の多くのみんながお世話になる仏教の勧めでもあるのだ。「この身、今生に度せずんばいずれの生においてか度せん」という、これは実家の真言宗智山派勤行録のおすすめ。ちなみに内容は懺悔の文句から始まっている。今生に命を得て、それだからこそ悟りを得ようとしなければ(仏教では)転生して又、いずこの生命を得てその場で悟りを得られるかどうか分からないだろう、だからこそ、生きる今こそ悟りを得ようとせよ! とそういう勧めなのである。ぼんやり経過する時間ではなく、「垂直次元での今という時を見つめよ」、それをどう思うかも「あなたの時」であるし、確かに経過する期間とはその「時」の積み重ねであるのだから。東進大予備校で今はTVタレント?の林修先生の一時風靡した「(それをやるのは)今でしょ!」という言葉に多くの聴衆が感応したのは、今を見つめる宗教的かけ声でもあったと僕は思っている。(◇NHKの「チコちゃんに叱られる」の人気があるのもこの国の民族性気質は詰まるところ勤勉なのだな。「ぼーと生きてんじゃねぇよ!」Don't sleep through your life! いきなり飛んで恐縮だがキリスト・イエスも「今がその時である」とサマリヤの女に語った。<ヨハネ伝4章23節>)

◆さて、そういう「人」についてなのだが、肉においては(キリスト教では、魂<精神>と心と肉体、あるいはspirit、mind、bodyなどから人は成り立つと考えられている、そのうちの肉体)本当に目が覚めるような知能が高い人間がいるものなのであることは周知の通りで、一応この国の僕らはそのような人は一目おくことにしているのが普通であるのだが。それが何故かは、深く追求されない。実は理由があるのは、確かなのだがそれを言ってしまえば人間社会としておしまいよ、ということに属する事柄なのである。動物的知能が優れているのは親に関連するのだろうけれど、どのような親の元で生まれ、その環境に育ったのかとか・・・捜せばきりがない。ただ、僕らは凡人は与えられた人生をまずはその通りと受け止めて感謝して生涯を終えることだ。ただ、その中で如何に質の高い生き方(それも人それぞれだけれど)をして行くかなのである・・・と勝手に僕なりに思っている。これも開き直りではある、何故なら今いる僕のすべて肯定して受け止めるしかないからである。

◆さて、そこで一つ考えをアップして、人間とはいかなるものなのか、を考える時、この謎を追究しようともがくと、今の命を成り立たせている、霊魂を与えてくれているといったらいいのだが、その「神」というものにぶつかった訳だ。それは、「目には見えないが生きて働いている」というのである。それを見いだした人は苦難の中で死ぬことがあっても喜んで死んでいったというのである。世界のベストセラーの中に「神は自分らの似姿に人を創造されたのだ」とある。であれば、「自分という人」を調べれば逆に少しでも「神」を知ることが出来るに違いないと思われてきたのであった。確かに僕は今を生きているし・・・。

◆その僕という人を考えるだけでとりとめの無い物語になってしまうのであるが、「僕の生まれた小さな村の大きな物語」のその大きさがとてつもなく大きな話につながっていると思われたのは、ブログの表題の「世界のベストセラー」につながっているからと気づき始めた時からなのである。それが、また学問的にも確かな事柄になって来つつあるので驚きだったのだ。それはこの国の成り立ちにもつながっている物語でもあったのだ。・・・ 続く 

 


「生きた化石」カブトガニ見つかる愛媛 隣国中国では食用でしたね

2019-10-08 07:27:43 | 日記
 
 
僕が中国、厦門(アモイ)コロンス島に行った時は、市場で沢山食用として売られてましたよ。見た目と違って裏側は甲羅が湾曲して凹んでいて体が真ん中にへばりついているだけ。出汁用かなぁ。