初めに、実は先の「使徒信条」というのも語ろうしてきた僕の方針からは相応しくない。というより既に、上から目線で何か嫌と感じている人がいると思う。
というのは、すでに未信者からクリスチャンは何を信じているのか、と問われた時の返答(自己認識も含めて)が、それまでの総仕上げのように2世紀頃にローマで作成されたのが始まりのもの。正にそれだから「使徒の信条」というのだけれど、ここに総括された人の解釈の言葉が入り込んでますね。
デリケートなことだけれど、異邦人にとっては上から目線になっているのは、好ましくないのです。書いた僕がいうのも何だが、あまりこの総括的信条は好きではない。もう信じた人の言葉になってしまっているからね。
ステパノは、神の今までの歴史を了知しているはずの同胞の救いの為に、イエスが来られて、まさにそれが命ある、今、生きている神の働きであると滔々と述べたのだが(使徒言行録7章)、僕らが旧約を知ろうとする時は、彼の話は知識としてはいいのだが、新約聖書の出来事を総じてまとめるのは、よくないと思っているのです。父なる神様目線になってしまうと感じるからね。
すでにそれは、福音書以降の手紙に何度もなんども、同胞や異邦人に語られていることだから。彼(イエス)は今も語っているから。人の歴史上解釈されてきた人の言葉の介在物はそもそも不要と思っているのです。よって新約は個人が福音書を読みこなすしかないと言えるです。(本来、聖書はすべて)聖書のみ、そのものを自分の言葉で読むことです。
当然、疑問が沢山でてきます。それから、調べること。見開きに引照付きもあるし、『いのちのみことば社の引照付き』のように、書かれた場所、時代、記者、背景などが解説された聖書もあるので、疑問が出てきたところでそこを調べて見る、という順番。常に順番は先に自分にあるということ。
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ここでややこしい考えが浮かぶのです。これも哲学ジャンルに向かって行くのですが、そもそも人が理解し、判断する『自分』とは、その判断する基準は?、何を基準に自分の位置、基軸を何と考えているのか、というような哲学が、実際あって長い歴史を形成してきた訳です。西欧哲学のほとんどがそれだったと言えるくらい、人間とは何か・・・?
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僕ら異邦人が仲間入りするために・・・異邦人とは天地創造の以来、古来から命をつないできたご先祖の神が創造したその律法や預言者らのいわれを語り継いできた伝統を持たない者らのことでした。
しかし、神はご自身の似姿に創造した人、そのいわれ(神の秘められたご計画)を信じた人々を救済しようと、異邦人、つまり全人類を救おうと秘儀を開示されたこと。それがイエス・キリストに繋がっていることで、彼は今も生きており、地上へは信じる者に聖霊を送って理解の手助けをしているということになっているのですね。
そこでイエスは、信じた人々に短い祈りを教えられた。それは、『主の祈り』と呼ばれるものです。使徒信条のように個人の意見に反して見解をごたごた述べないので、是非、ネットでご覧ください。
地球の裏側の4万7千以上もの人が亡くなったガザとイスラエルの戦争も、ネットやニュースが今のようにならなければ、知らないことでした。私は生きて働いて歴史を動かしていると神は宣い、人々に無関心であることを甚だしく警告していると思うのは僕だけだろうか。
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『言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来るとあなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなた方に告げるからである。』(ヨハネ伝16章12-13節) これは生前、イエスが語った言葉でした。・・・
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