夕べからずっと冷たい雨が降り続いている。厚い雲に覆われた空を見ると今日は一日止みそうにない。

昨日は、突然卒業生がお母さんと一緒に訪ねてきた。

Sは私が担任をしていたクラスの生徒でもっとも信頼していた子。彼女もそろそろ30台の後半に差し掛かっているはず。まだ嫁に行かず同居している両親の庇護の下で元気に働いている。
Sは私と同じAB型。彼女は県下でもバドミントンでトップクラスの実力を持った生徒だった。スポーツの有力な子には豪放磊落、小事に拘泥しない性格を持った生徒が多かったように思う。
Sは性格が細やかで、物事をなんでも笑い飛ばして済ますようなタイプではなかった。世の中70億の人間がいるが、それぞれ独立した人間として親から受け継いだ遺伝的形質と独自の環境と歴史を送る中で培われた人格を有している。顔も性格も同じ人間なんて双生児でもない限り存在しないはず。しかし、Sはなぜか自分に共通するものがあって、彼女が思っていること、感じていること、悩んでいることが手に取るようにわかった。
クラブのことで悩むことも多かった。当時私は教育に全身全霊打ち込み、自分の持てる情熱を全て注いでいたように思う。時として怒鳴り、ビンタをとばすこともあった。
このクラスは私にとって最高のクラスだった。多士済々、中には反抗する子もいたがその子も卒業の日、我が家を訪れた。

私は毎日一日も欠かさずに学級通信「夢」を書き配布した。偶々昨日朝駐車場(物置兼用になっている)を整理していたら、古いダンボールに入っているビニール袋に入った分厚い「夢」の原稿の束が出てきた。当時は用紙に原稿を手書きで書いて印刷していた。もちろん教員なりたての頃はガリ版印刷だったがー
毎日書く学級通信B4版はその前のクラス担任の時から続けてきたもので、4年分7,8百枚の量になる。

大好きなクラスだったけれど、3年になって校長は「生活指導部長」に就く事を命じ担任を外れることになった。
しかし、有難いことにSは自分で学級通信「夢」を引き継いで卒業まで出し続けてくれた。
高校生の時から、何度も我が家を訪れていたので、子供のいない私達夫婦にとっては娘みたいな存在だった。お母さんも担任時代から力不足の担任を支えていただいた。お父さんはデパートに勤めておられ妻とも短い間ではあったけれど同じ職場にいた。背の高いサッカー選手だ。身長が170近い体躯と運動能力は父親譲り。バドは県内で一番強かったし、全国でも有力校、オリンピックにも5人日本代表になっている。そのチームの主力だった。

先日、クラブの卒業生が詩吟で日本一になったのでそれを祝ってやるために街に下った時、妻と彼女の店に久しぶりに行った。
「偶には気分転換に阿蘇の雄大な景色を見に来いよ。退職したので毎日家にいるので、遠慮しないで来い」
「家にいなかったら畑で作業しいるので声をかけろ」
昨日は仕事が休みだというお母さんと一緒にやってきた。


大学を卒業する時に大阪の出版社に決まっていたけれど、熟考の末それを断って亡くなった叔父が紹介してくれた私立高校に就職をした。自分は寂しがりやなので、物を相手とする仕事よりも人間を相手にする教育の方が向いていると考えた。37年間教職を続けてきた。そして多くの出合いをし、Sとも巡り合った。選択は間違っていなかったと思う。
