おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

春恒例の夜峰山山開き

2013年04月30日 09時11分35秒 | 日記
昨日は我が家のリビングから目の前に見える阿蘇中央火口丘のうち夜峰山913mに登った。

カーテンを開けると目の前にこの山がある。後ろに烏帽子1337m、その東側にオカマド山1150m、左に目を転じるとなだらかな稜線の向こうに頭をちょっぴり覗かせている杵島(きじま1321m)と往生岳(1238m)さらに下っていくと可愛い姿をした米塚(954m)が視野に入る。

夜峰は健盤龍神(たけいわたつのみこと)が一夜にしてこの山を築いたという。頂上にはテレビ各局の電波塔が並んでいる。

村の登山クラブの主催で毎年山開きを行っているのだが、私は3回目の登山になる。

下田城温泉駅(駅舎に温泉施設がある珍しい駅)の広場で8時半集合。参加者名簿チェックをして「儀式」を終えていざ出発

久しぶりの登山、日頃ジョギングで鍛えているはずなのに登山はまた違う運動。上りが時間。越して3年、殆ど顔見知りばかり。森の中を仲間とおしゃべりしながら登っていく

道端には一輪草、気色の悪い「マムシ草」が鎌首を持ち上げているまるでヘビのようだ。

そうそう一昨日のヘビとテンとの死闘、詳しい人に聞いてみたらそりゃあイタチだろうーということだった。今朝見るとすでにヘビの死骸どこにも見当たらなかった。鳥が始末してくれたのだろう。サンキュー

小学生も5,6人参加していて子供達とも話しながら元気を貰いつつ登っていった。

山上は広い放牧場になっていて赤牛がやったりと草を食んでいる。



ここから最後の上り。

登山というよりトレッキングだろうが、危険な場所もなく天気も晴朗で最高の一日だった。そして頂上にはもう一つの楽しみがある。男の料理仲間と夫人が5,6人で料理を作って待っていてくれる。

この日はタラの芽、新タマネギ、カライモなどの天ぷらとダゴ汁、地鶏の焼肉もある。小学生も大喜びだ

私ら素人登山で一番の楽しみはお昼のお弁当。これ最高

青空の下で爽やかな風に吹かれながら食べる弁当の美味さは格別。冷たく冷やした缶ビールを飲み、無上の一時を過ごすことができた。スタッフの皆さんありがとうございました。



来月は烏帽子の山開き。去年参加したけど、登山客が多くて頂上付近では登山道に列をなし渋滞という見たことない光景があった。今年はどうしようか・・・

○○とテンの死闘

2013年04月29日 06時12分17秒 | 日記


それは昨日の午後2時頃に起こった。

昨日は特に天気がよく、山間の冷涼地でも日が昇ると気温が上昇しポカポカした陽気になった。

午餐を終えていつものように昼寝していたその時間だった。

妻は庭を刈り払い機で雑草と戦っていた。庭の一角をフルーツガーデンとして柴を張らないでカボス、リンゴ、ナシ、かき、サクランボ、ブルーベリー、柚子、ブドウを植えている。そのすぐ横がお隣の別荘との境界。隣接するのり面の隣の敷地に大きく育った杉が7、8本取り巻いている。

別荘の向こうは谷川で水の音が家にまで届く。大雨の時には外輪山の上方から大岩を激流が押し流してきて「ゴロゴロ」という不気味な轟音が聞こえてくるので恐くなる。

外輪山中腹にあるこの場所、周りは森に囲まれている。いろんな動物が生息している。今年の正月には猿に作物をやられるという事件があったし、イノシシは彼方此方を跋扈している。まだ直接出合ったことはないがー。それに鹿がいるらしい。その肉は時々頂いてカレーに入れたりしている。

暖かくなると一番私が心配なのが「へび」

畑のまわりの葦が植わっているところの草刈をする時、慎重にしなければならない。「遭遇」する危険性がある。

青大将なら害はないのだが、マムシだとやられると大変

妻がその椿事に遭遇したのがこのフルーツガーデン。何とヘビとテンが柿の木に登って格闘したというのだ。

勝敗ははじめからついていたようだ。ヘビがテンを恐れて柿の木に登った。柿の木は2mほどの幼木、幹もまだ細い。このテッペンに登ってそこから逃げ場がない。それを木登り得意なテンが簡単に追いついた。ヘビの攻撃は口で咬むしかない。登っていった体勢で下からの攻撃に体を反転させてぶら下がった状態で戦ったという。これを巧く避けながらテンは首の下に噛み付きとうとうヘビの体を噛み切り落とした。

テンっていおう動物は肉食なんだろうーウォーキングの月例会が終わって帰宅した時、初めてその惨状を目にした。テッペンにその長い体の一部だけ15,6cmほどの残骸が確認できた。恐らく皆食べてしまったのだろう。弱肉強食の世界、死肉はすべて平らげる。

私はヘビの死骸を片付けないといけない男の義務感で、(しかしへびは最大の苦手!)畑用の長ーい竹棒を持ってきてこれで巻きついたヘビを巧みに外して森に捨てようと考えていたのだが、すでに残骸はほんの一部で恐らく何日もしないうちに鳥(ひよやカラスなど)が処理してくれるだろうと結論。

春夏は雑草との戦いになるのだが一方でこういう出会いを望まない動物との遭遇があるので用心しなければならない

ブログ用に写真をと一端考えたが、写真は残る。消去してもその行為で記憶が刻み付けられるので、目を瞑るとその姿が出現して夢にでも現れるとやばいー写真は止めた。


男の「井戸端」会議?

2013年04月28日 07時20分18秒 | 日記
男が女を非難する攻撃の的に「おしゃべり」というものがあるだろう

たしかに電車の中、病院のロビー、映画館の中・・・公共の施設でも仲良しのおばさんが集ったらもういけないおしゃべりは周りに人がいようがいまいがお構いなく限りない喋りが続く。

将来おばさんになることを約束されている女子高生でも通学のバスの中、電車の中、その片鱗はすでに見えている

こういうと世間の女性方から轟轟の非難浴びせかけられるだろう。先ずは謝って置くべきだろう「GOMENNASAI

じゃあー男はどうか?

検証1)
おしゃべりとは違うだろうという反論があるかもしれないが、本質的には一緒じゃないか?国会の審議中のガヤガヤと野次

民主党政権時代は答弁している際に野次られると怒って「非常識な野次や中傷発言は止めろ!」と言っていた。ところが自民に政権取られ野党に転落した途端、野次り始める。あの品なさ

検証2)
自分自身のおしゃべり。私はどちらかというと若い頃は無口で引っ込み思案タイプだった。人がワイワイ騒いでるのを横目で見ながら一人静かに教室の外を眺めるのが好きだった  よ う な  ・・・?

一番の苦手が人前で喋ること。大学時代がいちばんイケナカッタ外国語は英語とドイツ語の二つだったが、この科目英文独文のテクストを指名して読まされる。名簿順の場合が一番だめだった。自分の番に近付くと前の晩はもうドキドキして眠れなくなった。

指名されていよいよ発表となると心臓はばくばくして足が萎えて声は震える。この時の心臓のバクバクが後年の狭心症を引き起こしたのだ・・・ミタイナ。

これが教員になった。そして38年という途方もない時間が流れる中で、もまれもまれてとうとう平気で人前でしゃべれるようになった。去年はのど自慢大会に出てしかもグランプリ受賞という快挙まで手に入れたのだから人間わからないものだ。自分でもー

そして今は人以上にしゃべる。飲み方など場が沈むのがとてもイヤなので「オヤジギャグ」を連発して座を盛り上げようとする。これで失敗するのだ。

検証3)
男の料理教室。月一で通っている男達の料理。これはアラカン以上のオジンが会員。もう3年目になる。そしてこの集まりが楽しみなのだ。
今月作った料理をご覧(ろう)じろ

 

これが美味かったのだ。自分で言うのもなんだが腕が上がった。 

このクラブ。冷静に考えてみて何が面白いのか?作っている時の、食べる時の仲間内の座談が楽しみなのだ。話は地域のことから社会の様子、それぞれの昔の職業・・・時に自慢話が入るのも一興。料理はレパートリーはほぼ決まった。田舎料理でイタリアンとかフランス料理などとは無縁なレシピ。

時には自分で作った野菜を持ってくる。自分の家の漬物を持ってくる。その畑の話、大根の漬け方。まるでおばちゃんの井戸端会議そのもの

結論。人間って本質的に両性とも共通する性質を持っており、特に年を取って「無性化」していくにつれて実に似た存在になるのだ。以上!! 

世間から取り残された感じのG・W

2013年04月27日 07時23分15秒 | 日記


いい天気なのに今朝は悲しく寂しい話題で申し訳ござんせん

昨夜から宮部の時代物を読み始めたんでこんな口調になってしまいやした

定年して3年、職には就いていやせん。不思議なものでバリバリの仕事人間だった頃は、定年したら束縛を受けることもなく自由にゆっくり過ごすんだーこれを一つのバネに頑張ってきたということもある。

38年間、一つの職場で働いてきたので、ある程度の退職金ももらえたこれで年金受給年齢まで繋ぐことができる。ゆっくりしたいことをして暮らす。よく言う「悠々自適」の生活ってやつだ。

ところが人間ってあくまで贅沢にできている決して現状ってものに満足しない

自由な時間があって、豊かな自然があって、贅沢はできないけれど時にはランチを食べに外出したりするし、移り住んだところで出来た仲間と山登りに行ったり、料理教室に通ったりして、部屋の中で「ぼーっと」世間から孤絶したくらしを送っているわけではない。

それでもどこかにクオリティー・オブ・ライフ(QOL)に翳りを感じるのだ。まだ人生これから10年20年と年を重ねていくだろう。年齢が還暦を超したけれどまだまだ一日8キロ歩いたり走ったりできるし、認知症にもなっていない(記憶力は減退しているけれど年相応だろうー)。

自分の思い通りの生活に入ることができた。好きなことをすればいい。そういう自由気ままは利己的生活だが、クオリティーに欠けるということに気付いた。仕事をするってこと自利もある。金を頂くことができる。しかし働くということは人=他人のために自分を犠牲にして尽くしているという面もある。こういう利他的行為って苦労があるし、ストレスも生じるけど「生きがい」を感じるのだ。

これがスパッと無くなった。あるとすれば自分で求めてボランティアに出かけていくくらい。これは無償の行為。しかしこれはずーっというわけにはいかない。心臓病持ち、腰痛持ち、財産だけがなくて代わりに持病がデパートのようにある身の上では自分のペースというものがある。

田舎に越してカフェーレストランを開いている人、工芸で店を出している人もいる。一時はそういう人に「いい年になって客商売せんでもいいだろうにー」と揶揄したこともあったけど、これは「生きがい」の問題なんだろうと思うようになった。

昨日標高800mの九州山地祖母山の麓でパン屋をされている人が訪ねてきてくれた。一度、サクランボの病気を相談したらわざわざ訪ねてきてくださった。この人は早期退職組みで都会から山中に引越しされパン屋兼レストランをオープンされた。フルーツガーデンも作っていてこれも見事な成果を収めている人だ。

いろんな話をしていて、元気をもらったし、商売=金稼ぎという短絡的思考ではいけないと思った。稼ぐことを低く見ることはないし、その中にある生き方、生きがいの求め方にこそ要諦があるのだ。

惰性的に思える今の生活をもう一度見直して、真に納得できる生きがいを創造しなければと思っている。世間は「ゴールデンウィーク」で浮かれているのになあ

村上春樹読んだどー!!

2013年04月26日 07時13分04秒 | 日記


日本中に春樹狂想曲が流れているようだが、私もその流れに乗って「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を今朝読み上げた

偏屈な私としてはこういう○○フィーバーというのが好きではないので、冷めた目で批評しようと本を読んだのだが・・・

百田の「永遠の0」とは違う趣向=おもしろみ、違う文体であっという間に読了

長ったらしい題名なので村上独特の哲学的な表現で難解な小説かと思って本を開いたのだが、違った

高校時代の親友5人組の「その後」の話だが、ミステリーが入っている。

前半部の灰田の語りに出てくる緑川の存在。これが後半まで伏線として続いていく。

ある瞬間に人間は「善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体という枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直観になる。素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚である・・・」

親友の「シロ」の死が持つ不可思議。そして突然一方的に切断された5人組との関係。

つくるという主人公は駅という「空っぽの箱」を設計するエンジニアになる。空っぽの箱は彼の存在を象徴している。

フィンランドで元親友5人組の一人に再会し、言われた言葉がある。
「君はとても素敵な、心を惹かれる容器だよ。自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当は誰にもわかりはしない。・・・君はどこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。誰かが思わず何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に」

村上文学には音楽が付き物。今回はクラシック。村上には他人にない鋭い芸術的ないやある意味では動物的な感覚が備わっている。音の組み合わせ=曲、言葉の音の組み合わせ=記号が文章になる。色に組み合わせが美術的な美しさを造形する。この深い感性は学んで作られるものではなく天性のものなのだろう。

村上には「哲学」があり、百田地を這うような検証と実証的熱意が精緻な表現になって魅了する。二人は対照的だ。

さて今日から百田の何ていうのか本屋大賞をもらった受賞作を読み始めるとするかー