おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

苦役と読書

2013年06月30日 10時47分46秒 | 日記
今朝は8時から村の苦役で参加してきた。

農村では水路が貴重でその管理を徹底しなければ田圃に水が流れてこない

この時期、雑草が生い茂り畦に被さった状態になっているので、雑草を刈り取って水路のゴミを除去しなければならない。

もともとこの作業は地元農家で水路=井出を使っている管理組合がしていたのだが、私は引っ越してきたからには地元の苦役に加わり一緒に汗を流すことによって地元民との融和を図りたいと考えていた。それで出なくてもいいような苦役でも情報が入れば何でも参加している。

今回は4月に実施された苦役に出ている実績があるので「案内」があった。

我が家では刈り払い機は妻の専門領域に属し、私は扱えないのでいつものようにアメリカンレーキーとショウケ(ゴミを入れる容器)を持っていった。

男達が多いのだが女も3,4名参加していた。顔見知りもだんだんできてきた。

水路の両脇の草を刈って、それをレーキーで集める。水路に降りて流れをせき止めている草やゴミを引き上げる。結構な仕事量だ。小雨が降り出したが、ちゃーんと雨合羽を着ている。

水路が済むと2反ほどの田圃が荒れ果ている。聞くと持ち主、焼酎ばかり飲んで耕作を放棄しているとの事。

恐らく事情があるのだろう・・・そこを全員で雑草を刈り取っていった。




朝からいい汗を掻いた

さて今読み始めた本がある。岡井崇という医者が書いた本で『ノーフォールト』という医学の内部事情を書いた本。産婦人科に勤める女医が主人公なのだが、受け持った患者の状態が急変し、緊急に帝王切開して出産させる。

流石医者、患者の身体状況を克明に記し、手術の進捗状態も詳しく書いている。

帝王切開と聞くと簡単な手術かと思うが、様々な条件が重なり、患者は大出血を起こす。

そして赤ちゃんは無事生まれるのだが母体が術後も不調で出血が続き、さらに2回の手術を行うがとうとう助けることができなかった。

この場面、読んでいると体がぞくぞくしてくる。それ程の緊迫感でリアリティーがある。まだ150ページ位だが久しぶりに読み出したら本を置けないような感覚を味わっている。

大学付属病院に勤務する若い医者というのは薄給で、しかも多忙。寝る間もないような忙しさの中にある。生活のために別の民間病院でアルバイトするのだが、ますます多忙で家にも帰れないという。

これは制度の問題で、このままにしておくと医療事故が多発してしまう。岡井はそこを告発したかったのだろう。しかし、小説としてもおもしろい。


苦役と読書

2013年06月30日 10時47分46秒 | 日記
今朝は8時から村の苦役で参加してきた。

農村では水路が貴重でその管理を徹底しなければ田圃に水が流れてこない

この時期、雑草が生い茂り畦に被さった状態になっているので、雑草を刈り取って水路のゴミを除去しなければならない。

もともとこの作業は地元農家で水路=井出を使っている管理組合がしていたのだが、私は引っ越してきたからには地元の苦役に加わり一緒に汗を流すことによって地元民との融和を図りたいと考えていた。それで出なくてもいいような苦役でも情報が入れば何でも参加している。

今回は4月に実施された苦役に出ている実績があるので「案内」があった。

我が家では刈り払い機は妻の専門領域に属し、私は扱えないのでいつものようにアメリカンレーキーとショウケ(ゴミを入れる容器)を持っていった。

男達が多いのだが女も3,4名参加していた。顔見知りもだんだんできてきた。

水路の両脇の草を刈って、それをレーキーで集める。水路に降りて流れをせき止めている草やゴミを引き上げる。結構な仕事量だ。小雨が降り出したが、ちゃーんと雨合羽を着ている。

水路が済むと2反ほどの田圃が荒れ果ている。聞くと持ち主、焼酎ばかり飲んで耕作を放棄しているとの事。

恐らく事情があるのだろう・・・そこを全員で雑草を刈り取っていった。




朝からいい汗を掻いた

さて今読み始めた本がある。岡井崇という医者が書いた本で『ノーフォールト』という医学の内部事情を書いた本。産婦人科に勤める女医が主人公なのだが、受け持った患者の状態が急変し、緊急に帝王切開して出産させる。

流石医者、患者の身体状況を克明に記し、手術の進捗状態も詳しく書いている。

帝王切開と聞くと簡単な手術かと思うが、様々な条件が重なり、患者は大出血を起こす。

そして赤ちゃんは無事生まれるのだが母体が術後も不調で出血が続き、さらに2回の手術を行うがとうとう助けることができなかった。

この場面、読んでいると体がぞくぞくしてくる。それ程の緊迫感でリアリティーがある。まだ150ページ位だが久しぶりに読み出したら本を置けないような感覚を味わっている。

大学付属病院に勤務する若い医者というのは薄給で、しかも多忙。寝る間もないような忙しさの中にある。生活のために別の民間病院でアルバイトするのだが、ますます多忙で家にも帰れないという。

これは制度の問題で、このままにしておくと医療事故が多発してしまう。岡井はそこを告発したかったのだろう。しかし、小説としてもおもしろい。


打つということ、書くということ

2013年06月29日 07時16分08秒 | 日記


最近、ペンを手にしなくなった。万年筆、ボールペン、鉛筆、シャープペン・・・

何本も使えるペンを持っているに関わらずだ。

書斎の机の上には原稿用紙が何百枚とあるのだが、これに書いたのはもう何年前かー

自分のライフワークの一つとして毎年研究論文1本、できれば小説もー

これをずーっとパソコンで書いている。パソコンが「便利」、ちょっとあてにはできないが一応校正までしてくれる。

手紙も書かなくなった。暑中見舞い、年賀状は筆を使って書くし、贈り物のお礼はできるだけはがきで書くようにしている。
その年賀状にしてもソフト「筆王」を使う。

これも近代化の文化への浸透ということだろう。すなわち機械化オートマ化だ。

固定の電話を引いているがあまり使わないし、かかっても来ない。
夫婦ともそれぞれ携帯を所持しているので、用件はそれぞに携帯にかかってくる

近代化を全否定するわけではないのだが、負の側面も見ておくべきだ。

今浅田次郎のエッセイを読んでいて、彼もこの事態を憂えている。文字を書くという文化が廃れていく一方。
確かにコンピューターを使うと早くて便利。字の巧拙を隠してもくれる

しかし、キーボード操作ばかりですぐ文字が見つかり、辞書を繰るという行為さえしなくなった。そして自分でペンをもって書かない。ノートの売れ行きってどうなっているのだろう?

学校では流石にパソコン持込はさせないので、学生のノート需要は変わらないのかもしれないが・・・
今にノート型パソコンやタブレットが学校にも侵入してくるに違いない。

テレビを見ていると記者会見の手前の記者達の姿も一時期と一変した。皆主役の顔を見ないで音声を耳で聞いてそれをパソコンに入力している。打ちながらすぐ情報を発信するのだろう。

この変化が危ないことは実際にペンをもって文章を書いてみるがいい書こうとする文字が出てこない。書けないのだ!!情けないことになっている。

パソコンでいろんな機能を使いながら欠こうとすれば5分できることが書く段になると15分はかかるだろう。携帯の普及でメールが現代人の必須アイテムになっている。

常にメールを書いたり読んだりしているので、文章の作文力、読解力は落ちてはいないのだろうが、機械を使用しないで書くということの能力は確実に落ちていると思う。

文字には人となりが表れる。巧い下手があるけど下手は下手なりに「味」=個性は出る。これが活字になると個性が消されるので実に「味」気ない。ネットで文章を書こうと思えば、自由自在に例文を持ってきたり、人の文章さえコピーして転載できるので読んでいる側は騙されてしまう。

もう一度書くという作業を少しずつ取り戻さなければと思うのだがー
手元にはモンブランの数万もするペンもクロスのペンもあるのだが一度も使っていない。

組織の腐敗

2013年06月28日 07時08分21秒 | 日記

花はウソをつかない

これは人間のどうしようもない習性なのだろうか

一度、組織の頂点に立って強い権力=「ムチ」と付随する収入=「アメ」を持つようになってしまうとその地位に拘り恋々としてそこから外れるということに恐怖と外圧に対して嫌悪と苛立ちを感じてしまうものらしい。

なにをいっているかというと「時の人」である上村春樹という全柔連会長。

なにしろ「こんなに酷いのか」という組織実態を見せ付けられてもトップである会長が即退陣とはいかない。

「組織改革の目処が立ってからー」という曖昧な辞意表明。これは辞意表明ではない

内柴から園田の暴力、福田理事のハレンチ行為、補助金の不正利用・・・次々に出てくるハレンチな事実は日本が世界の誇るべきの古き良き伝統と格式を伝えている武道であるはず・・・・・・だった

競技種目としても世界に勝てなくなったし、勝った人が次々に不祥事を働いているのだからこれだけでも現在の柔道界は指導層が一新されなければならないのだがー

恥ずかしながらハレンチ内柴も上村も山下も熊本県人。最近は山下の名前まで出てきているみたいだけど詳しくは知らない。

同県人として恥ずかしくて堪らない。

組織改革の一環として女性を3人、指導部に入れたと発表。その中にあの「ヤワラちゃん」が入っている。

こういう事態ってどこにもありそう。

プロ野球のコミッショナーも辞めようとしない。

組織の内部に長くいると客観性が取れないくなり、しかも内部の「下」がチヤホヤするので自分の力を過信してしまう。「俺じゃないと組織は動かせない!」・・・

生え抜きも外から入れたエリートも同じ人間、究極の事態でその「人間」が問われる時、人の真価が現れる。

上村、加藤直ちに辞めたがいいぐだぐだいい続けるとそれだけ墓穴を掘ることになる


「古文書講座」の意味

2013年06月27日 07時05分57秒 | 日記


なぜだろうー現役時代に生徒を前にしていた時、一度古文書の研究会に誘われて勉強したことがある。

その時には社会科の教員として「必要性」は感じていたものの、その勉強に楽しさを感じなかった
どこかにやらされている、他人に見られている=カッコウつけている自分を意識していた

退職して田舎に引っ込んで、出会った「古文書講座」、地元の85歳の先達が指導してくれるこの講座が面白い。

昨日は明治3年の民部省発通達(写)「外国人雇用について」と、大改革であった「減税の通達書ー村々小前共江」いう文書を解読した。

候文で独特の言い回しがあって、初めは行書書きで書かれていて読めるのだが、次第に筆が走ってくると草書になって読みにくくなってくる。

しかし、声を出して読んでみて正解したときの喜びが大きく、力が入ってくるもちろん予習をしていった。

予習は次回やる文書を解読するだけでなく、明治3年、いや肥後の近代黎明期の概説を読んでいないと昔勉強したこともすでに忘却の彼方・・・

この時代の肥後の状況は開明的思想家に恵まれていた。横井小楠の弟子達が政治の表舞台に踊り出る。徳富蘇峰、蘆花の親父である一敬、竹崎茶堂、嘉悦氏房、安場保和・・・この実学党と対立する学派に林桜園以下太田黒伴雄など神風連に繋がる人々もいた。

古老の先生はアラカンたちの生徒に声を出させて読ませる。声を揃えて読むという小学校以来の授業だ。意味は最後にちょびっとだけさらーっと流す。しっかり予習しておかないとついていけない。

これが教育の原初的取り組みで、単純だが案外いい

質問は85歳の先生、大きな声で3回繰り返さないと聞こえないのでエネルギーが必要

でも楽しいから苦にならないのが不思議だ。

2週間に一度、再来週が待ち遠しい