田舎暮らしにも相反する考え方があることに驚いた
外輪山の中腹に住む私達の居住地の近所で「防犯と交通安全上で街灯の設置を村に申請しよう」という話になった。
これは全く知らないところで話が持ち上がり、一番年上の方が中心になって動き住人に呼びかけてある日集会を持った。
集会の催される「公民」館が引っ越して3年、初めて入るという事実にも驚く。新たな住民になった者にとって「公民」館はお呼びではないのだ!
形ばかり区長が話しに加わった。
街灯についての話だが、村が設置したとしても電気代は利用者が払うということが前提でしかも柱は既設の電柱を利用する。
長老(ごめんなさい、年は70位で少しだけ年長というだけー)が挨拶された。
夜狭い道が真っ暗で去年だけでも水路に落ちたり、道路脇に転げて脚を複雑骨折した人が出ている。危険性があるので街灯を設置したと思うがご意見を伺いたいと口火を切られた。
皆全員一致で話は纏まるものと高を括っていたら「どっこい!」そうはならなかった
まず最初に意見を出されたものは「反対だ!」というもの。
私達は田舎に移り住んで夜は人工的な灯りがなく、月や星空をながめ自然を実感したいと思っていた。街灯を付けると台無しになる夫婦で強い口調で語られ、意外にも同調する意見が2,3続いた。
これではおかしなことになると意を決し発言する。
日常生活に対する価値観は一つではなく、私はまず安全で安心した生活を求めます。どんなことが起きるか判らないこの時代、移り住んだ住人の子供が生活する上で防犯上の最低限度の街灯設置は必要だと思いますー
そう煌々たる光を発する街灯は必要ではなく「昭和のうすぼんやりした灯り」でいいんではないでしょうか・・・
この意見には同調者もあったのだが、賛成反対まっ二つ割れ、第2回目からの集まりには反対者は挙って出ないという。
地域のコミュニケーションが分裂するというのは一番避けるべきことなのだが。
人間の集団ってこういう風に分裂するのが必然なのだろうか?
もし災害が起こった時、コミニュケーションがないところに「助け合い」が生まれるだろうか?
外輪山の中腹に住む私達の居住地の近所で「防犯と交通安全上で街灯の設置を村に申請しよう」という話になった。
これは全く知らないところで話が持ち上がり、一番年上の方が中心になって動き住人に呼びかけてある日集会を持った。
集会の催される「公民」館が引っ越して3年、初めて入るという事実にも驚く。新たな住民になった者にとって「公民」館はお呼びではないのだ!
形ばかり区長が話しに加わった。
街灯についての話だが、村が設置したとしても電気代は利用者が払うということが前提でしかも柱は既設の電柱を利用する。
長老(ごめんなさい、年は70位で少しだけ年長というだけー)が挨拶された。
夜狭い道が真っ暗で去年だけでも水路に落ちたり、道路脇に転げて脚を複雑骨折した人が出ている。危険性があるので街灯を設置したと思うがご意見を伺いたいと口火を切られた。
皆全員一致で話は纏まるものと高を括っていたら「どっこい!」そうはならなかった
まず最初に意見を出されたものは「反対だ!」というもの。
私達は田舎に移り住んで夜は人工的な灯りがなく、月や星空をながめ自然を実感したいと思っていた。街灯を付けると台無しになる夫婦で強い口調で語られ、意外にも同調する意見が2,3続いた。
これではおかしなことになると意を決し発言する。
日常生活に対する価値観は一つではなく、私はまず安全で安心した生活を求めます。どんなことが起きるか判らないこの時代、移り住んだ住人の子供が生活する上で防犯上の最低限度の街灯設置は必要だと思いますー
そう煌々たる光を発する街灯は必要ではなく「昭和のうすぼんやりした灯り」でいいんではないでしょうか・・・
この意見には同調者もあったのだが、賛成反対まっ二つ割れ、第2回目からの集まりには反対者は挙って出ないという。
地域のコミュニケーションが分裂するというのは一番避けるべきことなのだが。
人間の集団ってこういう風に分裂するのが必然なのだろうか?
もし災害が起こった時、コミニュケーションがないところに「助け合い」が生まれるだろうか?