先日、妻の実家(みかん農家)から捥いだばかりのみかんを頂いて、幼稚園の子ども達に昼食時全員に配布した。前夜子ども達に食べさせるものだからしっかり丸ごと洗って、乾かしてダンボールに丁寧に詰めて持ってきたものだ。昼食は給食ではなく、自前の弁当を持ってこさせている。私も最後の1年、妻に早起きしてもらって弁当を持参し、必ずどこかの教室で子どもと一緒に食べる。この日は年長組と園庭にシートを敷いて食べた。担任が、「園長先生からのプレゼントのみかんだよ」と配ると、子ども達は嬉しそうに「園長先生、みかんありがとう!!」と口々にお礼を言ってくれる。みかんでこんな感謝されるなんて・・・と面映ゆく思っていると、向こうの園舎から年少のあどけない子ども達が教室から出てきて廊下に弓なりになって叫びだした。てんでばらばらなのだが、しっかりはっきり表現している。「園長先生、みかんありがとう!!」何度も何度も叫ぶのだ。もういいよ、わかったわかったからーと返しながら目頭を熱くしていた。この日、帰える時に、居残りで遊んでいたKという女の子、いつもは少し意地悪なことを言ったりする。今日はここで弁当食べようかなとその子に近づくとこの子だけが「だめー」って拒否する。教師でも感情を有する生身の人間なので「嫌な子だな」と避ける気持ちが心のどこかに形づくられていた。玄関のドアを開けて外に出ようとすると、Kちゃんが走ってきて、「園長先生、どこに行くの?」と聞いてくる。「ごめんね、先に帰るよ」と応えると、「わたし、園長先生大好き」と目をしっかりと見つめて口にした。「ありがとう」と応えながら、またジーンとしてしまった。こんな時には心が温かくなって足取りが軽くなる。
人間は複雑怪奇に生き物であり、すべての人がこちらが想像する通りの考え方感じ方をもっているとは限らない。私のすんでいる地域の県民性は「肥後の引き倒し」という言葉があるとおり、見えないところでの足の引っ張り合いが目立つ。誰かの足を引っ張るということは、そこにどろどろとした感情が錯綜している。ひがみ、羨望、嫉妬、揶揄、功利、裏切り、背信・・・これが当地では露骨に現れる。組織のトップについてから、周りで手のひらを返すように面従腹背する人が次々に現れた。人が集合するところの必然と割り切ればいいというお人好しの校長仲間もいた。それができない弱い人間だからフォークをやったり、文学を志したりしたのだ。子ども達のことは一つもストレスにならなかったのだが、自分が人の上に立ち私学経営と学内権力者として対応しなければならないことから来る人間関係に嫌気が差した。体をすっかり毀してしまったこともあって希望して幼稚園に移動した。
それにしても子どもは純真だなあ。基調としてもこの「純白」がどこで、どういう風にして、綺麗な色彩だけでなく薄汚れくすんだ色に染まっていくのだろう・・・
人間は複雑怪奇に生き物であり、すべての人がこちらが想像する通りの考え方感じ方をもっているとは限らない。私のすんでいる地域の県民性は「肥後の引き倒し」という言葉があるとおり、見えないところでの足の引っ張り合いが目立つ。誰かの足を引っ張るということは、そこにどろどろとした感情が錯綜している。ひがみ、羨望、嫉妬、揶揄、功利、裏切り、背信・・・これが当地では露骨に現れる。組織のトップについてから、周りで手のひらを返すように面従腹背する人が次々に現れた。人が集合するところの必然と割り切ればいいというお人好しの校長仲間もいた。それができない弱い人間だからフォークをやったり、文学を志したりしたのだ。子ども達のことは一つもストレスにならなかったのだが、自分が人の上に立ち私学経営と学内権力者として対応しなければならないことから来る人間関係に嫌気が差した。体をすっかり毀してしまったこともあって希望して幼稚園に移動した。
それにしても子どもは純真だなあ。基調としてもこの「純白」がどこで、どういう風にして、綺麗な色彩だけでなく薄汚れくすんだ色に染まっていくのだろう・・・