国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

はじめに

私(Yasuhiro)とボリビア人のLinda(通称)は2015年9月29日にニューヨークで結婚しましたが、翌2016年の1月3日にも妻の実家があるコチャバンバで式を挙げました。3ヶ月以上もの日を措いて2度結婚することになった訳ですが、その「たいへんだった」経緯については「結婚@NYまで」のカテゴリーにまとめています。

絶景→ぶち壊し

2018-12-28 | 帰省(2018〜19)
広場でラパス行きの乗り合いタクシーを拾うことになりました。が、私たち一行8名だけでは発車してくれず、満席になるまでしばらく待たされました。(定員11名でした。)タクシーは次第に高度を上げて・・・・・・・




そしてコパカバーナの全景が見えました。素晴らしい!


その後撮影した写真もことごとく見事なものでセレクションに苦労したほど。琵琶湖の12倍の面積を誇るといっても、その大きさは湖岸にいては絶対に実感できないものです。

これが最高地点なのかは判りませんが、少なくとも4200mは超えていました。



峠を越えてからは次第に高度を下げ、ティキナという所にある船着き場へ。コパカバーナから約1時間でした。


ここでは車と人を別々に渡すのが面白いと思いました。(そういう規則なのでしょう。)

ここからラパスまで2時間という話でしたが・・・・・・近郊都市のエル・アルト(国際空港の所在地)に入って間もなく、車はほとんど進まなくなってしまいました。

フライトの欠航のせいでリマ〜ラパスの移動手段を失ってしまったLindaと私は、何が何でも帰路を確保する必要がありました。それで一行は二手に分かれ、かつてラパスで学んだことのある二女のElmaさんが私たちに同行し、他の人達は先にラパス観光をするという方針でした。ところがこれでは・・・・・

しかしながら、この国の首都圏にはミ・テレフェリコ(Mi Teleférico)という名の交通手段(ロープウェイ)がありました。(日本のテレビ番組でもしばしば紹介されていますね。)そこで私たち3人はタクシーを降りて直近の乗り場から乗車。一度は乗りたいと思っていたのですが、それが予期せぬ形で叶いました。




写真を撮りまくりましたが、その多くはガラスに付いた雨滴が写り込んでいて残念。



乗車後しばらくして大渋滞の原因が解りました。交差点に無秩序に突入する車、車、車。多くは乗り合いタクシーのようですが、交差点の角であればどこでも乗り降り自由というのがとにかくよろしくないと思います。これでは動かなくなるのも当たり前。人口が増えに増えていつの間にかラパスを追い抜き、今やボリビア第2の都市となったエル・アルト(こちら参照)ですから、交通量が限界に達しているといるのは間違いありません。(それを捌くのにテレフェリコだけでは明らかに不十分です。)


終点で降りてタクシーで空港へ。(この間の渋滞も相当なものでした。)しかし、ここでは何もできないと言われ、教えられたラパスのオフィスへ向かうことに。(またしてもたらい回しかい!)


高速道路の下にラパス市街が見えました。27年ぶりです。

日本の中古車が並走していたので例によって(お約束の?)1枚。

市の中心部に到着。5分ほど歩いてPeruvian Airlineの事務所(販売代理店)に入りました。対応したAF(イニシャル)女史は「それはお気の毒でした」と同情の意を示し、ラパスからリマまでの帰路の手配をしてくれました。「交通費も食事も宿泊費も全てこちらが負担しますのでご心配なく」ということで、随分テキパキと、しかも誠実な対応をしてくれるじゃないか、とその時は思ったのですが・・・・苦情があまりにも多いので手慣れていただけかもしれません。後でその誠実さを疑わざるを得ないような事態に直面しましたから。

とにかく、ラパス→クスコの陸路(バスで12時間)およびクスコ→リマの空路ともに席が取れ次第、連絡するという説明に納得した私たちは事務所を出ました。(その後、他の航空会社のチケット売り場にも足を運びましたが、ラパス→リマ便はことごとく満席でした。)

ところで、この旅程変更によりLindaと私は当初の予定だった1月5日より1日早くコチャバンバを発たなければならないことになりました。そうなると同地で4日に行われることになっていた追悼ミサにも参列できません。それが判った途端、リンダは泣き出しました。(Orlandoさんの誕生パーティーがあった26日に着けず、さらにまたしても、ということで抑えていた感情が一気に噴き出したのでしょう。)が、Elmaさんが「日は変えられるから大丈夫」となだめてくれたので落ち着きを取り戻しました。(ただし前日の3日は予約で一杯だったため、ミサは2日前倒しとなりました。)



少し歩いてサンフランシスコ教会前の広場で別行動を取られていた5人と合流しました。渋滞を抜けてからはスイスイと進み、私たちが乗ったテレフェリコとは別の路線でラパスに入られたとのこと。(エル・アルトほどではなかったもののラパスの渋滞も酷かったですね。地下鉄か高速道路でも造らない限り解決しないでしょう。)

どなたか(誰だったっけ?)がイチ押しのファストフード店で少し早めの夕食(フライドチキンのセット)。食後しばらく散策しました。が、ある公園からの眺めに愕然。教会の後ろにそびえ立っている高層ビル。あれはいったい・・・・・・

Google Mapにはショッピングモールと出ていますが、新しい官公庁のビルで大統領が建てさせたのだとか。景観ぶち壊しじゃないですか。(京都なら絶対あり得ない。)

別の方角でも何やら建設中。リマ(旧市街)と違ってラパスは世界遺産じゃないからいいのか。

その後はショッピングモールに入ってティータイム。同じ広さのコーヒーショップがズラッと並んでいました。


バスターミナルでコチャバンバ行き夜行バスに乗車。21時半発ということでしたが、ターミナルを出るまでにえらく(1時間近く)時間がかかりました。

何とかして夜景を収めようとシャッターを押しまくりましたが、収穫はありませんでした。

これで28日の日記は終わりですが、翌29日は1枚も写真を撮っていません。30日と31日も数枚程度。なぜそうなったのかについては次回で。
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家族の絆

2018-12-28 | 帰省(2018〜19)

28日の朝はある重大イベント(後述)が7時から始まるため、早めに宿を出ました。Lindaは羊乳のチーズを買っていました。(が、訳あって私たちがそれを食べることは結局ありませんでした。)


前夜の夕食と同じく市場内で朝食。揚げパン(サトウキビの糖蜜をかけて食する)、普通のパン、コーヒーその他というメニューです。

ところで、(何年ぶりなのかはわかりませんが)久々にコパカバーナへ来られた皆さん(Lindaも含む)は口々に「昔と随分変わってしまったなぁ」とおっしゃっていました。以前は静かな保養地だったのに今やすっかり観光地化してしまったとのこと。その大きな理由にウユニ塩湖目当てながら当地にもついでに立ち寄るという旅行者が増えたということがあると思います。ウユニへのバスツアーの看板をそこら中で見ました。

その後、中央広場(2月2日広場)に面したカトリック教会(Basílica de Nuestra Señora de Copacabana)に入りました。そこでは毎朝7時からミサが執り行われているそうですが、謝礼を払えばプライベートな案件についても特別に祈ってもらえるとのこと。祭壇にはLindaのご両親の遺影が置かれました。言うまでもなくお二方の供養(それでいいのかな?)をしてもらうためです。(他にもミサの冒頭では「結婚○周年」「○歳の誕生日」などが読み上げられていました。)

Lindaも含め、ご一家は全員プロテスタントだそうですが、その何人かは前に出て神父さんの祝福を受けるとともに、振り払われた木の枝葉から飛んでくる聖水を浴びるという儀式にも加わっていました。一方Lindaは自分の席に留まったまま。このように兄弟姉妹で他宗派に対する態度に違いがあるのは面白いと思いました。(Lindaはやはりニューヨーク在住時代の教会での奉仕が長かったからでしょう。)なお教会内の写真が全くないのは撮影禁止だからです。

ミサ終了後に記念撮影。この後、次男のOrlandoさん(中央)が「父の最後の言葉はFamilia(家族)だった」と言い、さらに続けると皆が一斉に涙を流し始めました。そのスピーチがよほど心の琴線に触れるものだったのでしょう。そして私も(中身はよく理解できなかったものの)思わずもらい泣きしてしまいました。その後は誰からともなく全員が全員とハグを交わすことに。今回のボリビア滞在中で最も感動的な場面でした。

とにかく、この家族の絆の強さには最初から最後まで感心させられ通しで、私も少しは見習わなければと思ったのでした。(うちが決して仲が悪いということはありませんが、妹や弟との関係はずっと希薄ですから。)
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